
写真=宮原和也
左右対称の9つのポジションだが、反時計回りの走路ゆえに役割が変わってくる。ダイヤモンドの中心部を支配する二遊間も一塁ベースに遠いショートは肩、足で魅せる守備の花形、近いセカンドは技術で魅せる職人のポジションの印象が強かった。
日本プロ野球誕生前、その傾向はもっと極端だった。当時は、ほとんどが右打者で強い打球はショートかサードに飛んできた。それをつかみアウトにする2つのポジションがメーンでセカンドは下に見られ、ほぼ二遊間のコンビプレーはなかった。
革命を起こしたのは「苅田の前に苅田なく、苅田の後に苅田なし」と言われた
苅田久徳だ。法大時代は名遊撃手として鳴らしたが、プロ野球スタート時の1936年、26歳で東京セネタース入りする際の条件が「セカンドをさせてくれ」だった。アメリカ野球を見てセカンドの重要性を感じ、「日本のセカンド像を変えてみようか」と思ったからだ。
徹底的に取り組んだのが・・・
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