時に残酷に、時に感動的に──。1965年秋からスタートしたドラフト会議。多くの若者たちの将来が、その日に決まる。ここでは、その長い歴史の中から幾つかの出来事を拾い紹介する。 ※この企画内の年は基本的にドラフト開催年 大物も多かったドラフト外

投手として入団した横浜・石井
1990年まではドラフト外入団も認められていた(その後も一部例外あり)。完全に二通りあり、「ドラフトで指名するほどではないが、将来の可能性に懸けて」の場合と、「プロに行かないと言っていた選手を口説き、もしくは行かないと言わせ、他球団の指名を回避させてから入団」があった。
後者は
根本陸夫氏がいた時代の
西武が活発で、79年入団の
松沼博久(東京ガス)、
松沼雅之(東洋大)兄弟、81年入団の
秋山幸二(八代高)がいる。79年
巨人入団の
鹿取義隆(明大)は、社会人が内定しながら巨人が江川問題でドラフトをボイコットしたことで獲得となった。
前者の例は75年巨人入団の
西本聖(松山商高)、77年
広島入団の
大野豊(出雲信用組合)、79年阪急入団の
松永浩美(小倉工高中退)、89年大洋(横浜)入団の石井忠徳(
石井琢朗。足利工高)らが挙がる。現在は同様の役割を育成が果たし、
ソフトバンクは10年会議育成4位の
千賀滉大(蒲郡高)をはじめ、一
大勢力だ。
史上最多8球団競合の第1号
1位指名で次々同じ名前が挙げられていくのはドラフトの醍醐味とも言える。抽選は第1回では採用されていたが・・・
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