ここでは球史を彩ったマスコットたちを振り返る。ドラフト1位で巨人に入団した島野修だったが、マウンドに上がれたのはわずか24試合。だが現役を退いたあと、1000試合以上に“出場”することになる。選手ではなく、マスコットとして。笑顔にしたファンは、きっと数え切れない。 文=井坂善行[スポーツライター]、写真=BBM 
阪急のマスコット・ブレービーは、元選手である島野修が演じていた
「新しい足跡を残せるじゃないか」
1980年の秋風が吹き始めたころ、島野修が経営する兵庫県・芦屋市のスナックに、顔なじみの阪急ブレーブスの球団職員がやってきた。その隣に座ったスーツ姿の男が、内ポケットから数枚の写真を取り出して島野に見せた。
写真に写っていたのは、MLB・フィリーズの人気マスコット「フィリー・ファナティック」だった。緑色のぬいぐるみに身を包み、ファンはもちろん、選手にも慕われているシーンが撮影されていた。
「へー、さすがメジャーですね。面白いですね」
島野の言葉を待っていたように、球団職員が「実は西宮球場にもマスコットを誕生させようと思っている。この方は夏にメジャーを視察に行って来られた、電鉄本社の社員です」と紹介された。
この2人がなぜ、自分の店に……その疑問はすぐに解けた。「島野さん、西宮に登場するブレーブスのマスコットを担当していただけないでしょうか」。
もう野球とは無縁の世界にいると思っていた。「豊作」と言われる68年秋のドラフトで、島野は巨人から1位指名を受けた。契約金1500万円、年俸180万円は破格の待遇だった。高校野球の名門・武相高から、球界の盟主・巨人へ。しかし・・・
この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。
まずは体験!登録後7日間無料
登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。
登録済みの方はこちらからログイン