大洋が川崎球場から横浜スタジアムに本拠地を移転して「横浜大洋ホエールズ」となった1978年からファンとなった漫画家のやくみつる氏。以来応援を続けてきたが、自身が思い入れのある“ホエールズ戦士”を思う存分に語ってもらった。 取材・構成=小林光男 写真=椛本結城、BBM
※本文中の選手名の数字は横浜大洋在籍年度 
やくさん持参の横浜大洋グッズとともに。真ん中のバットは山崎賢一の「こけしバット」だ
歴史的な勘違い!?
――やくさんの最も思い入れのある選手は誰になるのでしょうか。
やく 一人に絞るのは難しいですね。やっぱり、すごくたくさんいますよ。例えば
田代富雄(78-91)。いま、
大谷翔平(ドジャース)の試合をテレビで見ると、収音マイクで拾った効果音みたいのが聞こえますよね。「ブォ~ン」とか、「パシッ」とか。田代はスタンドから見ても、その効果音が聞こえてきそうなフルスイングが魅力でした。バットとボールが30センチくらい離れているようなスイングでしたが(笑)。今はバッティングコーチで名伯楽的なポジションを獲得していますが、どう指導しているんだろうと思うくらい、とんでもないところを振っていたイメージでした。
――それでも30本以上、ホームランを放ったシーズンもありました。
やく 本当ですよね。それに今は
牧秀悟に対して、「チャンスに弱い」などと罵声が飛びますが、田代に対してそんなことは聞いたことがない。横浜大洋は暗黒時代が長かったですが、歴代の監督に対して「やめろ」
コールも起こらなかったですからね。選手に対して中傷がなく、ファンも「こんなもんだ」と達観していたんでしょうね。過大に期待していない。「あわよくば優勝」と思っている今とはファンの気の持ちようがまったく違いましたよ。
――田代さんは愛すべきキャラクターでもありましたよね。
やく「アジの開き」というあだ名がつけられる風貌で……。私は大学の漫研で野球を題材にしていましたけど、まさに“描いてください”という顔でした(笑)。それにしても私も川崎から横浜に移転して、すごく清新なイメージを横浜大洋に抱いて応援するようになったんですけどね。それまでの野球場は深緑主体でしたが、横浜スタジアムは今も続いている青。そこに新しく白紺のユニフォームを着た選手たちがいて、とにかくオシャレに映っていたんです。「これからはホエールズが来るな」と。それは歴史的な勘違いでした(笑)。
――個々を見たらオシャレな選手はいなかった。
やく 例えば
松原誠(78-80)、
高木由一(78-87)、
中塚政幸(78-82)は当時、年齢はいってないんですけど、そうは見えない。なんて大人が野球をやっているんだろう、と。「初老ジャパン」みたいな感じ(笑)。本当に渋かったですよね。
――そんな中で異質だったのは。
やく 遠藤一彦(78-92)ですよね。スラッとしてスタイリッシュでした。ストレートにキレはあるし、フォークは落ちる。何度も素晴らしいピッチングを見せてくれましたし、暗黒時代を支えてくれたエースでした。後世に語り継がれるような
クロマティ(
巨人)との対決もあるんですが、私にとって遠藤で最も印象に残っているのは負の場面なんです。1987年10月のことです。一走・遠藤がレフト線へのヒットで一気に三塁を狙ったんですけど、最後左足でケンケンしながら必死に三塁へ。立ち上がることもできずに担架に乗せられて退場していく姿を見て、のちにアキレス腱を断裂したと分かるんですけど、そのときはアクシデントが起こったことだけは明らかで・・・
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