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【球場の記憶】石田雄太×山本勉が語る ナゴヤ球場が教えてくれた野球観戦の楽しみ

 

NPB公式記録員として数多の球場でスコアを記し、NPB公式サイトで消えた球場を巡る連載コラム『球跡巡り』を綴っている山本氏。ベースボールライターとして、数え切れぬほどのスタジアムに取材で訪れてきた石田氏。同じ時代を過ごしてきた同学年の2人が、球場の記憶を語り合う。
取材・構成=杉浦多夢 写真=矢野寿明、BBM

石田雄太、山本勉[右]


ナゴヤ球場の思い出


山本 僕は愛媛の田舎の出身で、子どものころ、野球はテレビで見るものでした。石田さんが初めて訪れた球場はどこでしたか。

石田 僕は名古屋出身なんですけど、野球に出合ったのは父の仕事の都合で静岡に住んでいたときなんです。大洋ホエールズがキャンプをやっていた草薙球場ですね。昭和48年のペナントレースまではまったく野球を見ていない人生だったのに、49年に大洋のキャンプへ父に連れて行かれて。敷地をグルグル回りながら、色紙を持って選手のサインの寄せ書きを集めていました。その年の大洋と中日のオープン戦を見に行ったのが初めてのプロ野球観戦ですね。

山本 当時の草薙球場って照明はあったんですか?

石田 ありました。ロッテの試合とかナイターでしたから。ナイターの輝きというのは球場の中より外のほうが印象的ですね。

山本 まさにそのとおりで、僕が初めて球場で公式戦を見たのは1982年のナゴヤ球場なんですよ。10月4日の中日対ヤクルト戦です。就職試験で名古屋に来ていた帰りに、駅から球場へ行く道すがら、ナイターの光が見えるじゃないですか。あの光景が、もう40年以上経ちますけど、いまだに忘れられないですね。

石田 分かります。82年はもう名古屋に住んでいましたから。本当に他愛もない道なんですよね。駅を降りて、その普通の道を球場に向かって歩いていくと、右前方に球場の輝きが見えてくる。父が巨人ファンで、新浦壽夫投手を好きになったという事情もあって、大洋でも中日でもなく巨人ファンになっていましたが(笑)、あの時期は何度ナゴヤ球場に行ったか分からないです。

ナゴヤ球場は2人にとって思い入れの深い球場だ


山本 僕は三塁側のポール際に座っていましたけど、もしかしたら一緒に見ていたかもしれませんね(笑)。

石田 なくなってしまった球場がテーマということで、アメリカで買った『ベースボール・バケーション』という本があるんです。老夫婦がいろいろな野球にまつわる旅をするんですけど、一度だけマネをしてみたことがある。スケジュールが合わなくてまったく同じというわけにはいかなかったんですが、いつか日本版の『ベースボール・バケーション』を書きたいなと思っていたら、山本さんに『球跡巡り』で先を越されてしまいました(笑)。

山本 そう言っていただけると光栄です(笑)。『球跡巡り』を書くにあたっていろいろ調べている中で、気づいたことが2つあるんです。ひとつは昔の球場って競馬場跡によくつくられているということ。3、4年前に伝来150年があったとおり、野球が日本に伝わったのは1872年。それで競馬がその12年前の1860年なんです。欧米のスポーツが徐々に日本へ入ってくる中で、まず競馬が入ってきて全国に競馬場ができた。ただ1908年に馬券が発売禁止になったこともあって、立ち行かなくなるところも出てきた。

石田 競馬が廃れたから野球場が増えたという見方もできるんですね。

山本 平坦で広大な土地があって、水はけが良くて、球場にするには打ってつけだったんでしょう。今の一軍の球場で言えば宮城(楽天モバイル最強パーク宮城)がそうです。ほかにも旭川のスタルヒン球場、西宮にあった鳴尾球場、今の長崎ビッグNスタジアム、川上哲治さんにゆかりのある熊本の水前寺球場。全国の至るところで競馬場の跡地に球場ができているんです。昔の球場の場所を探すときに国土地理院の古い航空写真を見るんですけど、競馬場ってたくさんありましたからね。

球場をつくる浪漫


石田 もうひとつの「気づき」は何だったんですか。

山本 お城です。昔の球場ってお城の中にけっこうあったんですよ。

石田 なるほど、城址ですね。

山本 北から行くと桜で有名な弘前城、山形・鶴岡の鶴ヶ岡城、福島の白河小峰城、金沢城の兼六園では巨人戦がよく行われていました。お城には広い土地があるし、交通網が発達していなかったから球場に集客しようとすると街の真ん中にないといけない。今とは逆ですね。今は駐車場がないと来ることができないから、どんどん球場が郊外に出ていって。

石田 僕はお城に対して思い入れがあるわけではないのですが、お城好きになぜ好きかを説明されるのと、野球場の跡地を語るときって、何か似ているなと感じますね。昔、そこに誰がいて、何が起こったか。場所に人の魂が残されている感覚。以前にコラムで、なんでお城のプラモデルがあるのに球場のプラモデルがないんだと文句を書きましたが(笑)、お城と球場って日本人にとって通じるマインドがあるのかもしれません。

山本 あの姫路城でも1948年に変則ダブルヘッダーで1日だけプロ野球が行われているんです。阪急で先発して、三塁側ベンチ後方にそびえる姫路城を見ながら投げていた今西錬太郎さんにお話を伺ったことがあるのですが、そのことを覚えていらっしゃらなかったんですよ。右投手でしたから、セットポジションのときには目の前にそびえていたはずなのに。なんでかな、と思ったんですけど、当時はお城のそばで野球をやるというのが、それだけありふれた光景だったんです。

石田 今でもお城が見える球場はありますかね。岐阜かな?

山本 長良川球場なら岐阜城が見えますね。石田さんは名古屋出身ですが、名古屋には1人で球場をつくってしまったという豪傑がいましたよ。

石田 名古屋出身なんですけど、『球跡巡り』を読むまで知らなくて、びっくりしました。

山本 ひとつは山本球場で、山本権十郎さんという事業家の方が1922年に自らの所有地だった運動場を切り開いて、野球場をつくったんです。64歳という当時としてはかなり高齢のときで、民間の経営者による球場建設は初めてのことでした。

石田 かつて星野仙一さんに「NPBのコミッショナーになってくださいよ」という話をしたら、「俺はそんな柄じゃねえ!」と言いながら、「大人が子どもにしてやれることは野球をする場所を用意することだけだ」とおっしゃっていました。実はそれが今の日本で一番難しいことなんですけど、大昔に実現させていた方がいたんですね。しかも、名古屋に2人も。

山本 そうです。もう1人が終戦の2年後に大須球場をつくった高島三治さんです。今は名古屋スポーツセンター、いわゆる大須スケートリンクがある場所ですね。ただ寺院の跡地で鐘楼が焼け残っていたり、一角に古墳があったり、制約が多かったようで外野が狭かった。極めつきはセンターフェンスの手前、グラウンドの中に木が立っていたんです。

石田 今だったら逆に名物になっているでしょうね(笑)。

山本 星野さんの言葉ではないですが、時代は今また巡ってきましたね。栗山英樹さんや斎藤佑樹さんが野球場をつくっているじゃないですか。ああいうニュースを見ると、うれしいですね。

石田 僕は両方とも行きましたけど、彼らの野球場づくりを見ていると、大変な作業が山のように待っているということを痛感させられるんです。当然ですけど虫はいるわ、雑草は生えるわ、芝を植えても半年後どころか明日どうなっているかも分からない。その中で斎藤さんは「子どもにサク越えのホームランを打たせてあげたい」というモチベーションであえて狭い球場をつくった。ランニングホームランではなくね。そうした思いで球場をつくるということに浪漫を感じます。

街中へ漏れ出る光


山本 『球跡巡り』で球場を巡っていて面白いなと思ったのが函館市民球場です。オーシャンとは違うほうですね。函館山のふもとにロープウェイがありますけど、あそこにあって。函館山のなだらかな傾斜を利用したライトスタンドに、スキージャンプの小型シャンツェが設置されていたんですよ。夏は野球、冬はスキージャンプ。設計には都市対抗の敢闘賞にも名を残す草創期の名捕手だった久慈次郎さんも関わっていたそうです。

石田 ジャイアンツ球場がある場所にも、人工のスキージャンプ場があったんですよね。

山本 今も塔が残っていますよ。1972年の札幌オリンピックで金銀銅を独占した「日の丸飛行隊」もジャイアンツ球場にあった施設で練習していたそうです。古くは1938年に後楽園でスキージャンプの全日本大会が開催されていますから。

ジャイアンツ球場にはスキージャンプ台があった名残の塔が残っている


石田 面白いですね。球場と競馬場、お城、スキージャンプ台が結びつくんですからね。

山本 ところで石田さんは日本の球場でどこが一番好きなんですか。

石田 なくなってしまうということですけど、やっぱりナゴヤ球場です。新幹線から見えるじゃないですか。だから僕は下り列車なら、富士山の右ではなく必ず左の窓側です。草薙球場も見えますしね。一瞬なんですけど、スマホのアラームをかけてでも起きて必ず見たい。草薙にも思い出はあるんですけど、やっぱり野球観戦の楽しみを教えてくれたのがナゴヤ球場なので、その思い入れは何にも代えられないです。

山本 僕は子どものころ、プロ野球はテレビでしか接することができなかったので、やっぱりプロ野球の世界に入ってからですね。

石田 記録員として最初のお仕事はどの球場だったんですか。

山本 一軍デビューは横浜スタジアム、二軍戦は相模原球場でした。

石田 好きな球場はその2つとは違うんですか。

山本 違いますね。ベタですけど、僕はやっぱり甲子園がいい。プロ野球の甲子園は四季を感じることができるでしょ。今の球場の記録席は個室が多いんですけど、甲子園はスタンドの中にある。だから春先のオープン戦は凍えるし、夏の高校野球の前後は風のないときの蒸し暑さがすごい。自然の中の野球場ですから、「生きてるな」って感じる(笑)。ナイター照明で緑の芝生が浮き上がってくる鮮やかさは格別ですね。100周年を越えましたが、あと100年先も残しておいてほしいです。

プロ野球開催の甲子園には四季が感じられる


石田 空の色の変化もいいですよね。開場する16時に入るとまだ明るいんですけど、17時、18時とだんだん群青色になってきて、試合開始が近づいてくるワクワク感があります。

山本 屋外の球場ならでは、の感覚ですよね。

石田 ナイターと言えば外、外観ですよね。夜になると光が漏れてくるから、もちろんそこに球場があるのが分かる。街の真ん中で光がダダ漏れしている感じというのは、今はもうないと思うんですよ。横浜スタジアムは横浜公園に囲まれて住宅街ではないですし。昔の大阪球場や日生球場のように街の真ん中にある球場は減ってきてしまいましたから。

山本 そういう意味で、僕は後楽園には行けなかったんですよ。

石田 後楽園も水道橋の駅に着いた瞬間、光がダダ漏れしていましたね。「うわ、どうしよう!」というワクワク感が味わえた。雨や暑さのことを考えるとドームが見る人に優しいというのは分かるんですけど、屋外の球場には間違いなく違った魅力がありました。

山本 屋外の球場だと、もちろん大変なときもありますけどね。

石田 神戸でやった2021年のオリックスとヤクルトの日本シリーズの最後(第6戦)はものすごく寒かったですね。足の感覚がなくなるような……。でも寒さで一番しんどかったのは、イチローさんの勝ち越しタイムリーで勝った第2回WBC決勝のドジャー・スタジアムです。風が吹いたら頭がキーンとなるくらい冷たくなって……。

山本 “匂い”もありますよね。

石田 桑田真澄さんは、甲子園の匂いといえば焼きそばの匂い、ソースの匂いだとおっしゃってますね。

山本 そうなんですよ。甲子園の焼き物。数年前にLED照明になって明るく見やすくなったんですけど、昔の照明灯だと甲子園の右中間、左中間というのはけっこう暗い感じだったんです。さらに外野の下で焼いている焼きそばや焼き鳥の煙が出てきてですね。モヤっているんですよ、記録席から一番遠い場所が。あれは記録員泣かせでした(苦笑)。それもいい思い出ですけどね。

球場のあるべき姿


石田 仕事を始めたのが1988年で阪急と南海が身売りする前のラストシーズンだったんですけど、西宮球場、大阪球場、藤井寺球場も含めて何度も取材に行く機会がありました。大阪球場はネット裏の一番上の席に立つと、落っこちてしまうんじゃないかっていうくらい急勾配でしたし、西宮球場はお客さんが全然いないのにすごくゴージャス(笑)。近鉄が優勝したときの藤井寺の猥雑な感じも忘れられません。

山本 川崎球場は2000年の横浜とロッテのオープン戦、球場最後の試合を担当しました。不思議な魅力があった球場でしたから、満員でしたね。バックヤードやトイレも含めて、審判控室もなんですけど、昭和の香りがあちらこちらに残った球場でした。ライトのポール際なんてスタンドが数段しかなかったんじゃないでしょうか。

石田 川崎球場は村田兆治さんの200勝を追い掛けた思い出があります。川崎ではなく山形の球場での達成だったんですけど、村田さんのまとう雰囲気と川崎球場の空気感というのは、どちらも武骨な感じですごくマッチしていた。狭くて確かに施設としてはちょっとアレでしたけど、僕は好きでしたね。

山本 行けなかったけど行ってみたかった球場はありますか。

石田 やっぱり東京球場(東京スタジアム)ですね。後楽園の試合のチケットを取ってくれた叔父さんが千葉の松戸のほうに住んでいて、常磐線で帰るんです。そのとき車窓から明かりが見える。「あれは何」と聞いたら東京球場だと教えてもらって。マンガの『こちら葛飾区亀有公園前派出所』にも「光の球場」というタイトルの回がありました。

ナイターの魅力はスタジアムから漏れ出る光。今はなき東京スタジアムは「光の球場」と呼ばれた


山本 僕は先ほども言いましたが後楽園です。テレビでは見ていましたけど、セ・リーグに入った1989年は東京ドーム2年目でした。ちょっとだけ間に合わなかった……。古き良きという意味では、僕が素晴らしいと思っているのが今のエスコンフィールドです。エンターテインメント空間の側面が言われますけど、あの球場って実は昔の選手をすごくリスペクトしているんですよね。

石田 チームエリアのエントランスには久慈次郎さんとスタルヒンさんの写真が向かい合うように飾られていたりしますからね。

山本 ファイターズには縁もゆかりもない2人なんです。それでも日本初の300勝投手であるスタルヒンさんは旭川、久慈さんは函館にゆかりがあって、地元・北海道のヒーローをリスペクトしている。右中間フェンスの3番の話はご存じですか?

石田 いや、聞いたことがないです。

山本 戦後のプロ野球が復活したのが1945年11月23日、東西対抗戦ですけど、そこで彗星のように現れたのがファイターズの前身であるセネタースの大下弘さんでした。3安打5打点の活躍だったのですが、両軍合わせて34安打の中で唯一、外野手の頭を越える長打を打ったんです。それが神宮球場の右中間フェンス直撃の三塁打で、エスコンの同じ場所のフェンスに大下さんの背番号である「3」を印したそうです。

歴史と伝統へのリスペクトにあふれるエスコンF。右翼フェンスにある[3]もそのひとつ


石田 そこまでやるんですね! リスペクトとは違うかもしれませんが、エスコンのこだわりという意味では「匂い」です。エスコンはメジャー・リーグの球場にそっくりなんですけど、最初に何に驚いたかって匂いだった。クラブハウスに入れてもらったときの独特の匂いが、メジャー・リーグの球場と同じだったんです。これもアロマなどで再現しているそうですよ。マツダ広島ができたときもすごいなと思いましたけど、知恵を絞ってお金を使って、球場の進化は本当にすごいと思います。

山本 昔、われわれが感じたように、今の人たちにも球場へ行く感動を味わってほしいですからね。東京ドームの記録席は1階スタンドの上、通路の横にあるんですけど、お客さんがコンコースからその通路を通って最初にグラウンドを見るわけです。そうすると「うわ!」とか「すげえ!」とか感嘆の声が聞こえてくる。やっぱり球場って異空間なんだなと、そのときに思います。われわれは頻繁に球場に行くから、その感動は麻痺してしまっていますけど、年に数回、数年に1回しか行けない人たちにとっては非日常であって、感動のエンターテインメントだということを忘れてはいけない。球場はそういう場であり続けてほしいですね。


PROFILE
いしだ・ゆうた●1964年生まれ。愛知県出身。NHKを経て独立し、フリーランスのベースボールライターに。メジャー・リーグを含めて取材で数多の球場を訪れる。著書に『イチロー・インタビューズ激闘の軌跡2000-2019』『大谷翔平野球翔年』『平成野球30年の30人』など。弊誌にてコラム『閃球眼』を連載中


PROFILE
やまもと・つとむ●1964年生まれ。愛媛県出身。89年からセ・リーグ公式記録員。両リーグの統合により2010年から日本野球機構(NPB)所属。93年から一軍公式戦を担当し、25年シーズンまでに現役最多の1507試合に出場。NPB公式サイトにおける連載コラム『球跡巡り』は書籍化もされている。
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