プロ野球通算2480安打は史上8位の大記録。通算487二塁打は最多記録として、その名を歴史に刻んでいる。中日ドラゴンズ一筋で22年間の現役生活を送ったが、その原点は高校時代、PL学園での3年間にあるだろう。春夏を通じて7度の全国制覇を成し遂げた全国屈指の強豪校。PL学園でのあの日々があったからこそ、今がある。 取材・構成=牧野正 写真=佐藤真一、BBM 
久しぶりに目にする母校のユニフォームに「ちょっと色が違うかな? こんな色だったですかね」と立浪氏
厳しい環境で鍛えられて
小学4年生のときに兄の背中を追うように茨木ナニワボーイズに入り、中学でも同じチームでプレーした。高校進学は当時の監督から大商大堺を勧められ、最初は受け入れたものの、卒業が近づくにつれて揺らぎ始めた。「やっぱりPL学園に行きたい。PLに行って甲子園に出たい」。悩んだ挙げ句、失礼を承知の上で進学を取り消してもらい、憧れの高校に入学した。プロへの道など頭にない。ただ、PLのユニフォームを着て甲子園に出たかった。 ──このユニフォームを見ると、やはり高校時代を思い出しますか。
立浪 そうですね。でも現在は野球部がなくなってしまいましたからね……(2017年から休部)。現役時代のころは後輩たちの活躍、甲子園に出場など楽しみもあったんですが、現在は甲子園に出ることがないので、そこは非常に寂しい思いをしています。
──懐かしいですか。
立浪 懐かしいですよ。このPLのユニフォームを甲子園で見たら、皆が一目置くような、そんな感じがしましたから。でもそれはわれわれよりもずっと昔の先輩たちがつくり上げてきた歴史、伝統、そのおかげ。それでも自分が考えている以上に、このPLのユニフォームの力というのは絶大だったかもしれませんね。相手が緊張してくれるというか。
──今やすっかり有名な話になりましたが、そもそも立浪さんはPLではなく、大商大堺への進学が決まっていました。
立浪 決まりかけていたんですけど、どうしてもPLのユニフォームを着て甲子園に出たいという思いが捨てきれませんでした。それでなんとか行けることにはなったんですが、大商大堺とは秋の大会で対戦することになって(1年秋の秋季近畿地区大会の準々決勝)、勝ったほうが甲子園のセンバツ切符がほぼつかめるというような試合で、そこで逆転で勝つことができたんです。すごく運命的なものを感じましたし、自分が大商大堺に行っていたら、どんな結果になっていたんだろうなと思いましたね。
──PLでやりたい、と最初に思ったのはいつのことですか。
立浪 中学生のころです。夏の甲子園で勝ち上がっていく姿を見て、自分も目指したいと思うようになりました。近くに強い学校はたくさんありましたけど、当時のPLの強さは群を抜いていました。
──初めてPLのユニフォームを着たのはいつになりますか。
立浪 たぶん1年の秋だと思います。大阪大会、近畿大会とメンバーに入っていましたから。どちらにしろ、3年生が卒業してからのことですよね。それまでは練習用の真っ白なユニフォーム。名前が入っていました。
──そのときは、すでに背番号は「6」でしたか。
立浪 いや、たぶん違います。14番か15番だったか……。それでも最初にユニフォームを着たときは感動しましたよ。1年生の夏に応援で甲子園に行って、そのときに2学年先輩の清原さん(
清原和博、のち
西武ほか)、桑田さん(
桑田真澄、のち
巨人ほか)が大活躍している姿をスタンドから見ていて・・・
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