西武、いやパ・リーグの四番として君臨した時代だが、打撃タイトルは、一度も手にしていない。当時の言葉を拾っていくと、“こんなはずではない”、“もっとできるはず”という葛藤を常に繰り返していたことが分かる。 
1996年日米野球が西武最後のユニフォームとなった
「タイトルは精いっぱいやった先。去年はタイトルを考え過ぎて自分より相手が気になった。今年は自分のバッティングをするだけ」
「今年は何かタイトルが欲しい。首位打者もいいが、やっぱりホームラン王やね。50本を打ちたい」
一時は三冠王にも迫った1990年オフの言葉だ。2つの間は1カ月も離れていない。このときだけではない。西武時代の
清原和博の言葉を拾っていくと、この2つのような言葉が何度となく、交互に繰り返される。矛盾ではない。届きそうで届かない打撃タイトル、常勝チームの四番のプライドと責任。清原の心は、ずっと揺れ動いていた……。
91年は、4月6日、史上初の2年連続開幕戦2本塁打(
ロッテ戦/西武)で幕が切って落とされた。ロッテの先発・
小宮山悟は大の苦手。攻略法に悩み、前夜はなかなか寝付かれず、何度となくバットを振り、グリップの感触を確かめ、最後はそのままバットを枕元に置いて寝たという。
しかし、この年は左手首の故障もあって、徐々に低迷。清原は自ら
森祇晶監督に四番降格を直訴したこともあったが、森監督は認めなかった。真の四番となるための試練を与える意味もあっただろうが、観客動員への影響を不安視する営業サイド、清原の庇護者である堤義明オーナーへの気配りなど、いろいろな憶測も言われた。
結果論ばかりで申し訳ないが、清原はすでにプロ6年目。もう怖い者知らずにガムシャラに走るだけというわけにはいかない。繊細で内向的な一面も明らかになっていた・・・
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