あこがれの巨人は決して安住の地ではなかった。期待が大きい分、打てなければ容赦ない罵声が飛び、応援をボイコットされたこともある。プライドはズタズタに傷つけられた。 KKでお立ち台に

97年、桑田の復活勝利の試合で移籍初本塁打。お立ち台でガッチリ握手
話は少し戻る。1996年11月24日、
清原和博が少年時代からのあこがれ、巨人に入団。その際、PL学園高時代の盟友でもある
桑田真澄がインタビューを受け、秋季キャンプの地・宮崎にあったPL教団の教会で、「こんなことを祈っていた」と語っている。
「一緒にプレーできますようにと手を合わせていた。来季自分がカムバックした試合で彼がバックを守ってくれていてね。その試合で彼が僕のために一発放り込んでくれたら、最高の僕の復帰ゲームになるでしょうね。いまからイメージトレーニングをしておきますよ(笑)」
桑田は95年6月15日の試合中に右ヒジを損傷。渡米してトミー・ジョン手術を受け、96年の登板はなかった。長いリハビリを経ての復帰のシーズンを前に、清原がやってきたのだ。これもまた、運命だろう。
「僕の残りの野球人生において、このジャイアンツという大きな舞台でいかに大きな花を咲かせられるかですね。勝つことを使命とするチームの中でやることについては、今までと変わりません。重圧はありますが、長嶋(茂雄)さん、王(貞治)さんは、そんな中でタイトルを取り続けたということです。だから、みんなに認められたんです」
入団当初のインタビューで初々しく思いを語り、“無冠の帝王”からの決別を誓った29歳の清原。ただ、巨人は当時、異常な状況にあった。長嶋監督が“欲しがり病”と揶揄されるほどの大型補強である。
最大のターゲットは“四番打者”だ。生え抜きの
松井秀喜が確実な成長を遂げているのに、96年には
ヤクルトの
広沢克己(実)、ヤクルトを退団したばかりのハウエルを獲得。この年も清原だけでなく、近鉄の四番・
石井浩郎を獲得した。97年シーズンを前に
落合博満を放出したが(ハウエルは96年途中退団)、他球団の四番経験者がずらりと並ぶ豪華戦力だ。一方で、ファンの間には生え抜きを大事にしない補強策への不満がジワジワと蓄積していた。
清原もまた、イライラしていた。周囲からの注目度、取材攻勢は想像を超えていた。キャンプでは自分のあとを追いかけてくる大量の報道陣にいら立ち、キャンプの打撃練習でのスタンドインの数が翌日の新聞を飾り、ああでもない、こうでもないとたたかれる。心がささくれ立った。
「前をふさがれると気分悪いんや!」
「スタンドインは数えるな!」
報道陣への“暴言”が次々飛び出し、それが新聞で書きたてられる。当時の心境について・・・
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