選手のオフの表情に迫る連載企画、第2回は、昨シーズン新天地で輝きを放った鵜久森淳志だ。その野球人としての土台が作られた場所が愛媛県であり、済美高のグラウンド。悩んだとき、やっぱりこの場所が背中を押してくれた。鵜久森のルーツをたどると見えてくるのは、不屈の精神の原点だった。 取材・構成=阿部ちはる、撮影=前島進、BBM ![](https://cdn.findfriends.jp/img.sp.baseball/show_img.php?id=13844&contents_id=p_page_002)
済美高グラウンドの奥のネットにある黄色い線は、坊っちゃんスタジアムでスタンドインできるラインを示している。「よくその向こうの工場まで飛ばして部長が謝りに行っていました」(鵜久森)
父との約束と日本一の練習量
シーズンオフになると、必ず向かうのが母校・済美高校だ。2014年に恩師・上甲正典監督が他界し、当時コーチだった中矢太氏が現在は監督を務めている。「懐かしいですね」と当時を振り返る鵜久森淳志だが、「キツかったことしか覚えていない(苦笑)」というほど、当時の練習は厳しかった。だが、それが原点。上甲氏も認めるほどの努力家の根本はここにある。どん底を味わい、それでも新天地で開花した男が、思い出の地で当時を振り返った。
鵜久森は済美高野球部の一期生。高校野球のレベルが高い愛媛県において、甲子園出場の壁が高いことは誰もが承知だった。それは野球部を任された名将・上甲監督も同様だった。
「早く結果を出して、その中で選手の信頼を勝ち取らないといけない、という焦りみたいなものもあったと思うんですよ」と中矢氏は振り返り、鵜久森も、「日本一練習したと思いますよ。本当に」と厳しい練習を思い出し顔をゆがめる。
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右が現在済美高野球部の監督を務める中矢氏。「今なんて鵜久森たちがいたころの5分の1も練習していないよ。あのころは本当に日本一練習したと思う」と振り返った
当時から身長が高かった鵜久森だが、休みがなかったために、超回復の期間が取れず、自分の体を扱うだけの筋肉が出来上がらなかったと話す。
「家に帰ってからもバットを振っていましたからね」
それは父・正男さんも証言している。
「入部するときに当時コーチを務めていた竹本(竹本治義)さんと約束したんですよ・・・
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