1994年、シーズン最多210安打をマークし、一躍時の人となったイチロー。周囲の視線がより背番号51に注がれるようになったが、プレッシャーに押しつぶされることはなかった。95年、阪神・淡路大震災が起こり、自身も被災。「がんばろう神戸」の思いを力に、チームをプロ野球界の頂点へ導いていく。 写真=BBM、GettyImages 
210安打以降も進化を止めなかったイチロー。「がんばろうKOBE」の思いも胸に戦った
異次元のバッティング
「子どものころからプロ野球選手になることが夢で、それが叶(かな)って、最初の2年、一軍と二軍を行ったり来たり、そういう状態でやっている野球は楽しかったんですよ。1994年、3年目ですね。仰木(
仰木彬)監督に出会って、レギュラーで初めて使っていただいたわけですけど、この年まででしたね、楽しかったのは。そのあとは、急に番付を上げられちゃって、一気に。それはしんどかったです」
前回も記したが3月21日深夜、都内ホテルで行われた引退会見で、このように語ったイチロー。「ケン・グリフィー・ジュニアが『肩の荷を下ろしたときに違う野球が見えてまた楽しくなってくる』と話していました。そういう瞬間はありましたか?」という問いに対する答えだった。
急に番付を上げられた――それは彗星(すいせい)のごとく現れて、シーズン最多210安打をマークした翌年、95年のことだ。「2年目のジンクス」という言葉と、昨年以上の結果を求めるファンの期待。開幕前、イチローは周囲の雑音を気にも留めない様子で抱負を「130試合フル出場」とだけ語っていたが内心、「内野安打が多い」「ホームランが少ない」という外野の声に対する反骨心があったはずだ。
万人が注目する中、幕を開けたシーズン。そこには・・・
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