WBC第1回大会で日本を世界一に導いたイチロー。第2回大会にも中心メンバーとして参加。しかし待っていたのは極度の不振だった。それでも懸命にチームのためにバットを振り続け、最後の最後、2連覇を決めるヒットを放つ。「奪いにいく」と宣言どおりの有言実行。まさに千両役者だった。 写真=小山真司、Getty Images 
WBC連覇を達成した侍ジャパンナイン
WBCは北京五輪のリベンジの場ではない
2008年、日本は北京五輪でメダルを逃した。翌09年に控える第2回WBCに向け早急にもう一度代表監督を選び直す必要があった。北京で指揮を執った
星野仙一監督は、再度世界に挑戦するという意欲が十分にあった。
加藤良三コミッショナーの呼びかけで、WBC体制検討会議が招集された。
王貞治第1回WBC監督や
野村克也当時
楽天監督などが集まり開催されたこの会議では「現役監督は厳しい」という意見などから、星野氏の再任が濃厚となっていた。しかし、この北京五輪での星野政権は、
山本浩二氏や
田淵幸一氏という星野氏の親友同士で組閣され、メダルに届かなかったことで「お友だち内閣」などと揶揄(やゆ)され、世間から批判されている。さらにイチローのコメントが流れを大きく変えた。
「WBCを北京五輪のリベンジの場にすべきではない。現役監督は難しい、では本気で最強チームをつくろうとしているとは思えない」
この“待った”により、世論は星野氏のWBC監督就任をさらに遠ざける大きな波となり、結局星野氏は辞退することを表明した。
イチローは
オリックス時代から「五輪はアマチュアのもの」という考えがあり「世界中のプロが真の実力を争うべきイベントが理想的」と話していたことがある。WBCこそ、その理想のイベントになり得るものだった。しかも3年前の第1回大会では「日本の選手だけでチームを組めたかもしれないのに、王さんがまず初めに声を掛けてくれた」という恩義を感じながら出場し、頂点に立った。だからこそ、声を上げずにはいられなかったのだろう。
08年10月、
巨人を2002年の日本一、08年のリーグ優勝に導き、知名度も高い
原辰徳監督の就任が決まった。チーム名も「侍ジャパン」という名称となり連覇を目指すことに。もちろんイチローも招集され、連覇を義務付けられたチームをけん引していくことになる。
「守るのではなく、奪いにいく。その意識の差は大きい」と一度挑戦者として、おごることなく立ち向かう覚悟を見せた。第2回大会の時点でイチローは35歳。メンバーの中には10歳以上も年下の選手たちもいる。必然的に・・・
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