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平野謙の「人生山あり谷あり、感謝あり」

平野謙コラム 第1回「中学時代、姉と2人で金物屋を?」

 

俊足堅守の外野手としてセ、パにまたがり活躍した職人肌の選手。その波瀾万丈の野球人生を連載でお届けする。

バントの名手としても知られた[中日時代]


目標は20回?


 僕の話を連載で? 何回ですか? 3、4回? そりゃもったいなくないですか。10回にしましょう、いや20回!(笑)。面白い話がたくさんあるから心配しなくていいですよ。

 体形が変わらない? 確かに今はそうかもしれないですね。群馬(ダイヤモンドペガサス/BCL)で監督をやっていたとき、ノックやらで体は動かしていたんだけど、一人暮らしだったから、コンビニの炭水化物ばかり食べて一気に太ったんですよ。これじゃアカンと、東京に戻ってから一気に10kg落としました。

 健康のためとかじゃなく、今年、群馬でオリンピックの聖火ランナーも決まっていて、準備で体を動かしていたんです。それが1年後……。家族や友達が、応援をするんだと、現地のホテルを予約していたのも全部キャンセルです。コロナ騒動が始まってから、野球の解説の仕事もキャンセルばかりで、毎日、飛行機やホテルのキャンセルばかりしてました。ほんと、もう参ったな……。

 いやいや、僕の愚痴を聞いてもらう企画じゃないんだよね(笑)。

 僕は名古屋市の金物屋で生まれました。兄妹は姉が一人(内藤洋子さん)。作家になって当時の話を小説に書き、だいぶ前だけど、NHKのドラマにもなっているから、知っている人もいるかもしれないですね(「ようこそ青春金物店」)。

 6歳でオヤジが亡くなって、その後、店はおふくろが一人でやっていたんですが、僕が小学6年生に上がったときに43歳で亡くなったんですよ。姉と2人暮らしになったんだけど、金物屋をまだ高校2年生だった姉が、学校を休学して、どうにか切り盛りしていこうとなった。

 姉は頭もよくて、もともと大学を出て先生になるのが夢だったみたいですけど、それを全部捨てた。僕ですか? 勉強はまったくです。そちらの才能は姉に全部行ったんでしょう。遺伝子が違ったかな(笑)。

 姉と仲のいい高校の同級生のおばあさんが、うちに手伝いに来てくれたのは助かりました。ご飯を作ってくれたり、いろいろやってくれた。このおばあさんがいなければ、たぶん姉弟2人ではやっていけなかったと思います。その後、高校を卒業した姉が運転免許を取り、仕事用に小さい車を買った。それで近くの町まで行商にも行っていました。僕も一緒に車に乗って手伝いましたよ。

 ただ、姉とは覚悟が違いました。僕は中学時代、部活でバスケットボールやサッカーをやったり、遊びもそこそこ。野球? 中学ではやってないですよ。そもそも野球部がなかったですしね。

 中3のとき、金物屋を改装しようという話もあったんですが、近くにスーパーができてお客さんが減ったのと、これはその前ですが、家の前にあった違う職種の店が、うちのおふくろが死んだ瞬間に金物屋になったんですよ! これは子ども心に「そりゃないでしょう」と思いましたね(笑)。そんなこんなで、これはもう、潮時だなって。

不純な理由でセンターに


 金物屋をつぶして犬山市に引っ越し、近くにあった犬山高校で野球部に入りました。最初はサッカー部と思ったけど、部員がすごくたくさんいて、簡単にはレギュラーになれないと思ったからです。運動ならなんでもよかったんです。でも、やるなら試合に出たいじゃないですか。

 正直、野球部は弱かったし部員も少なかったんで、ここなら大丈夫だろうと(笑)。昔は本多逸郎さんという中日の選手も出したけど、当時の僕らは知らんかったですし。だから甲子園にどうしても出たいとか、プロ野球選手になりたいとか思っていたわけじゃありませんよ。仲間たちとわいわい野球をやって、終わってから近くの店で焼きそばを食べたりするのが楽しかったですね。

 1年生からセンターになったんですが、これも実は不純な理由がありまして(笑)、3年生が抜けたあとにレギュラーになれるのはどこだろうと、見渡したらセンターが3年生で、ほかにいなかった。これは、この人が卒業したらレギュラーになれるな、と。ほんとはショートをやりたかったですが、キャプテンがショート、2年生にも同学年にもいた。3人いたら無理だなって。でも、結局、プロで最初にレギュラーになったのがセンターですからね。先を見る目があったということかな(笑)。

 監督は毎年のように変わったけど、野球を本格的にしていた人は2年のときだけ。この人にはずいぶん走らされた記憶があります。岐阜との境に桃太郎神社というのがあって、そこまで車で1学年上のエースの人と連れていかれ、「帰りは走れ」と。この山に野猿がいて、何度か襲われました(笑)。

 高校2年のときは、その先輩が好投してベスト4に入った。そこで東邦高にこてんぱんにやられましたけどね(笑)。僕は「三番・センター」で打率4割くらい打ったんで、ローカル版だけど新聞に注目選手として紹介されました。

 2年の秋から僕は投手になったんですが、このときの監督は鈴木正先生で、本職というのか、学生時代にやっていたのはバスケットボールでした。結局、ピッチャーのことなんか誰も教えてくれないから、ボールの握り方もセットの入り方も分からず、全部我流でやっていました。

 投手としてのタイプ? どうでしょうね、速球派にしておきましょうか。ほとんど真っすぐしか投げられんかったからだけですけど(笑)。ただ、エースになった3年の夏は、1回戦であっさり負けてしまいましたけどね。

 当時、生活に余裕がないから、高校を出て働くことは決めていました。ただ、いくつか大学からセレクションに参加しないかと声を掛けてもらっていて、その中で名古屋商科大が熱心だったんです。監督が家まで来てくれて、「特待で来てくれないか」と言ってくれた。

 特待でも金がかからないわけじゃないから「行きたい」とは自分から言えなかった。けど、姉が自分が大学に行きたいのに行けなかったこともあるんでしょう。「何とかするから、あんたは行きなさい」と言ってくれたんです。ただ、このときもまだ、プロ野球なんて目標はまったくないです。野球部にいたほうが、就職で有利かな、と。それくらいでした。

 大学でもピッチャーだったけど、毎年、シーズンオフになると、監督に「野手をやらせてください」と頼んでいました。最後までOKしてもらえなかったけど、投げないときは一塁や外野もしていました。ピッチャーが嫌いというわけじゃないですが、練習が大変なのが嫌だったんです。走ったり、投げたり、フォーメーションをしたりと疲れるからね(笑)。それに単純に打つことが楽しかったし、守るほうがむしろ好きだったかもしれないですね。

 大学卒業後は社会人が決まっていました。面接で「プロから話が来たら」と聞かれて、「行きません」と答えていたのも嘘じゃないですよ。ほんとにそう思っていました。

 実際、プロは、どこからも話なんてなかったですしね。

PROFILE
平野謙/ひらの・けん●1955年6月20日生まれ。愛知県出身。右投両打。犬山高から名商大を経て78年ドラフト外で中日入団。88年西武、94年ロッテに移籍し、96年限りで引退。俊足堅守の外野手で86年に盗塁王、リーグ最多犠打は7回を誇る。通算1683試合、1551安打、53本塁打、479打点、230盗塁、打率.273
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