兵庫・小野高、慶大で活躍し、東京六大学リーグ戦では早大・和田毅(ソフトバンク)と真剣勝負を演じた元フジテレビアナウンサーで現スポーツアンカーの田中大貴は、1980年生まれの「松坂世代」の1人。そんな野球人・田中が、同年代の選手たちをプロ野球現場の最前線で取材した至極のエピソードを、コラムにして綴る連載第39回です。 
3年夏の甲子園では3試合に登板。キャッチャー防具を脱いでマウンドに上がること自体珍しかったが、トルネード投法でも沸かせた
地方大学のすごいヤツ
「ウソだろ、150キロを超えるボールは空気を切り裂く音が違うんだ」
彼と対峙(たいじ)したときにそう思ったのを今でも鮮明に覚えています。
僕らが大学4年生になるころ、慶應義塾大は常磐大と練習試合を行いました。そのときにマウンドに上がったトルネード投法の投手を、僕らはベンチから食い入るように見ていました。
「とにかく速い。そして重く、鋭い。表情もまったく変わらない。こんな投手が地方の大学にいるんだ」
その後、
藤川球児、
ジェフ・ウィリアムスとともにJFKの「K」として
阪神タイガースをリーグ優勝に導いた
久保田智之。大学時代、彼と対戦したとき、すでに球速は150キロを優に超えていました。当時の東京六大学には、確かに150キロ前後のスピードボールを投げる投手はゴロゴロいました。けれど、久保田の投げるボールは空気を切り裂く音が金属音のように高く、「キーン」という音を上げながらキャッチャーミットに突き刺さるのです。抜群の球威と、その回転数を恐ろしいほど、体感させられたのを覚えています。
「98年の夏で一番覚えているシーンは捕手でもあった自分が甲子園のマウンドに立てたこと」と本人は言います。そう、久保田は高校時代までポジションは捕手であり、試合終盤になるとリリーフとしてマウンドに上がる選手でした。そして、あまり知られていませんが、大学時代までスイッチヒッターでもあったのです。その後、捕手も野手も捨て、プロの世界に進んでから投手に専念することになります。
「あの夏の最後の試合は・・・
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