1980年代にセ・リーグに在籍した助っ人は全部で78選手だったが、パ・リーグは68選手となった(支配下登録選手のみ)。大活躍をした助っ人もいれば、期待外れに終わった助っ人も……。 ※ポジションは登録のもの。成績は80年代のパ・リーグ球団在籍時の通算成績 マニエル(近鉄1979-80) 移籍して2冠に輝いた「赤鬼」

マニエル外野手/アメリカ/通算118試合、149安打48本塁打、129打点0盗塁、打率.325
ヤクルトの助っ人として76年に来日すると、「赤鬼」の愛称を得て、78年に39本塁打、103打点で球団初のリーグ優勝、日本一に貢献。
広岡達朗監督が「走れない、守れない選手はいらない」と近鉄に放出したが、DH制のパ・リーグで再び輝くことに。79年は死球による顔面骨折を負いながら37本塁打。80年には自己最多を更新する48本塁打、129打点で2冠に輝く。打撃理論で分かり合えた
西本幸雄監督との出会いも大きかった。
マルカーノ(阪急1975-82) ルーツは日本人?の優良助っ人
守備力を買われて
上田利治監督に誘われ、1975年に来日すると打撃でも活躍、球団初の日本一の使者に。以降も
大橋穣との鉄壁の二遊間を形成、78年には打点王となるなど、阪急黄金時代の主力選手として活躍した。外国人選手としては小柄だったが、パンチ力のある勝負強い打撃と、素早い併殺プレーでファンを魅了。80年代に入ると徐々に長打力に衰えを見せ、83年にはヤクルトに移籍した。本人によると・・・
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