ここでは1970年代にセで活躍した助っ人を紹介。助っ人と言えばアメリカ、投手よりも打者が多かった時代だ。 ※※支配下登録選手および外国人枠となる選手のみ。帰化した選手は該当年から含まず。ポジションは登録のもの。成績は70年代の球団在籍時の通算成績 週刊ベースボール 別冊空風号 よみがえる1970年代のプロ野球 EXTRA(1) セ・リーグ編
2022年11月28日発売より カークランド アメリカから来た“紋次郎”

カークランド●阪神1968-73[外野手/アメリカ]
通算440試合、309安打、63本塁打、149打点、3盗塁、打率.245
野手では
ランディ・バースや
マートンと並ぶ最長の6年間、阪神のみに在籍した。打席でもどこでもつまようじをくわえてプレーしていたことで小説やテレビドラマで人気の「木枯し紋次郎」から「モンジロー」のニックネームで人気者だった。豪快な打撃フォームで、
巨人戦では1イニング2本塁打や1試合3本塁打するなどライバル相手に強かった。徐々に成績を下げて73年限りで退団した。
ミラー 別名は“ドラゴンズのならず者”

ジョン・ミラー●中日1970-72[内野手/アメリカ]
通算382試合、344安打、79本塁打、222打点、13盗塁、打率.245
江藤慎一が去ったあとの四番を務めた。打率こそ低かったものの、在籍3年間で本塁打は常に20本以上をマークし、打点は毎年チームトップの勝負強さを誇った。際どいコースをストライクと判定されて三振を喫すると、バットをホームプレートに放り出してベンチに戻ることも。背番号4を背負い、大きい目に長いもみあげが特徴。メジャーで初打席初本塁打&最終打席で本塁打を放っている。
ボイヤー 日米で認められた守備と強打

クリート・ボイヤー●大洋1972-75[内野手/アメリカ]
通算419試合、382安打、71本塁打、218打点、1盗塁、打率.257
ナショナル・リーグで1969年にゴールドグラブ賞を獲得した軽快な守備は日本でも健在だった。シピンとともに鉄壁の内野陣を形成しチームを支えた。73年には
長嶋茂雄と同票でダイヤモンドグラブ賞を獲得し、初の日米両リーグでの守備部門表彰者となった。そのグラブさばきを見るためだけに川崎球場に通ったファンも多かったほど。引退後もコーチとして
田代富雄らの育成に尽力した。
シピン 三拍子そろった優良助っ人
大洋時代はモミアゲとヒゲがトレードマークで、二塁手としてチームの中心を担った。高い身体能力と芸術的なグラブさばきで守備での貢献度が高く・・・
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