
文=大内隆雄
前々号で契約金の話を書いたが、今週は、年俸について書いてみたい。この「年俸」という表記、いつごろから使われ始めたのだろう。契約金が以前は支度金と呼ばれていたのはご存じだろうが、年俸は、初めから年俸だったようでもある。
川上哲治さんや
千葉茂さんに聞いた限りでは、戦前は「月給」という呼び方が一般的で、月給1年分をまとめて呼ぶ表現はなかったようである。
『広辞苑』(第四版)で「年俸」の項を引くと、「ねんぽう【年俸】年ごとに定めた俸給。また、一年分の俸給」とあった。年配のファンに多いが「ねんぽうじゃない。ねんぼうと読め」と主張する人もいる。広辞苑の説明中、2度も出てくる「俸給」は、「ほうきゅう」と読むのだから「ねんぼう」は少々無理な読みだと思うのだが、「ねんぼう」のほうがいかにも年俸らしい響きがあるような気がするから不思議だ。と同時に「ねんぼう」だと、ドンブリ勘定時代の「これしか出せん」「そこを何とか」「しゃあない、これでどや」の人間臭さがまことに濃厚な契約更改を思わせる。
40年以上前の契約更改の「現場」を知っている筆者には、ドンブリ勘定の「ねんぼう更改」の時代が懐かしい。
筆者がかつて担当した小社の書籍『波瀾興亡の球譜』(坂井保之著)には、80年代
西武のラツ腕球団代表だった坂井さんの
ロッテの駆け出しフロント時代の逸話が載っている。300勝投手の
小山正明さん(写真、66年)に、フロント業務の無知を散々からかわれたあと「それも分からんのじゃ話になりませんなぁ。また来ますから、勉強しといて下さい」とバッサリとやられた個所だ。坂井さんは筆者に「あのおかげで僕は契約更改のプロになれたんだ」と言った。筆者には、こういう時代のプロ野球が懐かしいし、好ましい。まさに「ねんぼう」の時代だった。
小山さんと言えば、
阪神から東京(のちロッテ)に移った64年に30勝すると、時の永田雅一オーナーから「馬をやろう」と言われて目を白黒、「ウチではそんなもん飼えませんが……」。すると「アホ、競馬の馬をやろうというのや」と叱られたそうな。この時代、「名物オーナー」の時代でもあった。