
ハマやんとカネやん[金田正一投手]のツーショット。ハマやんのサイズがよく分かる[国鉄監督時代]
中日・
山本昌が、勝っても負けてもプロ野球最年長記録を更新し続けているが、これまで投手の最年長記録と言えば、
浜崎真二(阪急)の独占物のようなものだった。山本昌が最年長登板、勝利を記録したとき(9月6日、対
阪神)、浜崎のことを詳しく報じたメディアはほとんどなかった。そこで、この欄で浜崎とは、どんな野球人だったのかを紹介してみたい。
プロ野球最年長登板や勝利は、実はこの人の野球人生の中で、それほど大きな位置を占めているワケではない。それどころか「お遊び」のようなものだった。48歳10カ月での最年長登板は1950年11月5日の毎日戦(西宮)だったが、パ・リーグの優勝(毎日)は10月25日に決定しており、毎日の
湯浅禎夫監督と浜崎真二監督兼投手が示し合わせて「2人で先発してファンサービスをしよう」となった。実はこの2人、大正末から前者は明大、後者は慶大のエースとして投げ合ってきた仲。湯浅は1925年(大正14年)秋の東京六大学リーグ戦スタートのシーズンに109奪三振、ノーヒットノーラン2度の大記録。109奪三振は、いまだに六大学最多記録だ。浜崎は、このシーズンの、いわゆる復活早慶戦に登板している歴史的な人物。その2人が投げ合うというのだから、六大学野球ファンが圧倒的に多かった時代、これはたしかにファンサービスになった。
47年、46歳になる年に阪急監督に就任した浜崎は、投手不足もあって4試合マウンドに。48年は17試合。49年は監督に専念したが、2リーグ分立となった50年は、さらに投手不足となりマウンドに戻ることに(9試合)。
一方、湯浅は大阪毎日新聞運動部長から50年、毎日の監督に就任。こちらは監督専任で新加盟の毎日を1年目で優勝させた。だから浜崎と投げ合った試合がプロでの初マウンド。そして、これが最初にして最後のマウンドになった。試合は、2人とも5回までの約束で投げ合ったのだが、それまで8試合に投げていた浜崎の方が先にKOされて4回途中で降板。1球も投げたことのなかった湯浅は4回まで投げて2失点で交代。試合は9対2で毎日の大勝。まあ、どんな投げ合いだったか、想像がつこうというものだ。浜崎48歳10カ月、湯浅48歳1カ月。合わせて96歳11カ月。この高齢の先発同士の投げ合いの記録だけは、まず破られることはないだろう。
そんなワケで、浜崎にはこの投げ合いは、思い出にもなっていないようで、自伝の『48歳の青春』(ベースボール・マガジン社)でも「毎日が独走してしまってどうしようもない。なんとかファンに喜んでもらおうというので、湯浅禎夫(当時の毎日監督)とも話し合って登板したのだから、別にどうということはない」とハマやん(浜崎の愛称)はソッケない。
浜崎で書き忘れてならないのはその身長である。156センチの短駆なのだ。慶大時代はこの体で28年の慶大渡米遠征に参加。巨漢選手相手にどんなボールを投げたのだろうか。記録を見ると、相手を1安打に封じ、自らの犠飛で奪った1点を守り切った試合がある(1対0、対
ブッシュウィック戦)。振り回す相手をうまくかわしたのだろう。
それはともかく、プロ野球では監督が本業。阪急(47〜53年)、高橋・
トンボ(54〜55年)、国鉄(63年)と3球団で計10シーズン務め、535勝639敗29分の成績を残している。優勝はなかったが、2位が2度(49、53年)。無類のマージャン好きで「勘の悪い選手は、マージャンで頭の体操をしろ」が口グセだったそうな。