「捨てる神あれば拾う神あり」という表現があるが、便利なのか、よく使われる。読売新聞の編集手帳氏も、1月21日付のコラムで「『捨てる神あれば拾う神あり』と言い習わしてきた国である云々」と日本人の宗教に対する寛容さを、この表現に託していた。
ところで、かなり前になるが、ある国語学者が「これは、正しくは『拾う神』ではなく『助ける神』である」と、どこかで書いていたのを読んだ記憶がある。その根拠は、忘れてしまったが、そう言われると、「助ける」の方が、何だか日本人にはジャスト・フィットのような気がしてきた。字面とリズムでは「捨てる拾う」と対になった方が、ピタリとくる感じだが、意味からすると「助ける」の方がシックリくる。
一神教の厳しい神なら「拾ってやったのだ。罪を恐れ、神を畏れよ!」てな調子でいいのだが、八百万の神々の国の神様は、ただ拾うだけでなく「世の中をうらむんじゃないよ。私が助けてあげるから。もう1度やり直そうね」とやさしく語りかけてくれそうだ。手元の岩波書店の『広辞苑』(第四版)には「捨てる」の項に「捨てる神あれば拾う神あり」の用例を載せているから、これが正しいのだろうが、筆者には「助ける」も捨てがたい。
さて、プロ野球の「捨てる神」は容赦ない。自チームにいらないと判断された選手はどんどんトレードされ、解雇されていく。もちろん「拾う神」もいるワケで、あまり割に合わないと思われるトレードでも引き受けたり、トライアウトで拾い上げ、もう1回チャンスを与えたりと、人命救助(?)に努めるが、救助されず、球界を去る選手の方が圧倒的に多い。ということは、「拾う神」が「助ける神」にはなっていないということだ。「そういう世界なのだ」と言われれば、それまでなのだが、たとえプレーできなくても、「プロ野球の世界で生きたのだ」という実感を味わってから去る──。こういうフィニッシュを、いろいろ考えてやるのも「助ける神」ではないだろうか。
そこで大きなヒントになるのが、
ヤクルト時代の01年に最多勝投手に輝いた
藤井秀悟さんが、今年から
巨人の打撃投手になることだ。早大のエース、プロでは最多勝、01年には日本一になっている。09年の
日本ハム時代にはリーグVも。このプライド高き、5月には38歳になる男が、選んだ次のステップが打撃投手だった。「ステップなんてイヤミなことを言うべきではない」と言う人がいるかもしれないが、これは過去にとらわれた、もっと言えば、仕事というものに対する敬意を欠いた言葉ではないのか。筆者は、この“最多勝打撃投手”に注目したい。
藤井さんは、「週ベ」2月2日号の「惜別球人」で、現役生活を振り返ってよかったと思うことは、の問いに「いろいろな経験をしましたが、4球団を渡り歩いて友達が増えたことですね」と答えているが、これからは打撃投手をやらなかったら、絶対に作れなかった友人が現れるのではないだろうか。トライアウトでオファーがなかったことで、そのまま球界を去っていたら、この新しい友人には出会うことはできなかっただろう。

写真は春季キャンプで打撃投手を務める藤井秀悟さん。今度は“最多勝打撃投手”で戻ってきた。いい選択だと思う[写真=大泉謙也]
藤井さんのことだからいずれ、指導者として復帰することだろうが、打撃投手体験は必ず生きてくる。無名のままで終わった投手だって、打撃投手としてプロ野球の世界の違った一面を知る意味は大きい。各球団にお願いしたいのは、「拾う神」から一歩進めて「助ける神」になってほしい、これである。人を1人雇うのは大変なことなのだが、もう1つのプロ野球の思い出を作れる場所を可能な限り確保してほしい。