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83年夏のPL学園の選手は純粋で初々しかった。このPLをもう1度見たい!

 

 今週号はPL学園高の大特集だが、あの名門校が、監督も選べない、信じられない大ピンチを迎えるなど、だれが予想しただろうか。学校経営者は、何のおかげで、だれのおかげでここまで発展できたのかを考えたことがあるのだろうか。

 思えば、83年夏(第65回大会)のPLの選手たちは純粋だった。私事になってしまうが、筆者は、この大会後に発行する週刊ベースボール増刊の「第65回全国高校野球総決算号」作製のための甲子園取材班のキャップを命じられ、クソ暑さの中、PLを追いかけたことがあった。行きがかり上、決勝戦(PL学園高対横浜商高、3対0でPLの優勝)の巻頭原稿を書く破目になったが、気恥ずかしいが32年前の原稿の冒頭部分を書き出してみる。

 こんな若々しい甲子園が、かつてあっただろうか――。

 15歳がマウンドで躍動した。あの池田を完封した若アユ・桑田の躍動だ。

 横浜商高・三浦のドロンとしたカーブが、恥ずかしげに見えた。1年生投手のボールはなんのケレンミもなく、外角低めいっぱいに投げ込まれた。小島捕手のミットは、「パ〜ン」という乾いた、小気味のよい音を立て続けた……


「若アユ」「ケレンミもなく」「小気味のよい」─紋切型、常套句のオンパレードで汗顔の至りだが、まあしかし、桑田、すなわち桑田真澄投手の初々しい(もう6試合目だが)、マウンド姿には、こういう表現しか使えなかったのである。「少年投手」という表現よりもさらに若い投手。何しろこの年の4月1日に15歳になったばかりの1年生。決勝戦は8月21日。桑田は15歳4カ月と20日あまりで深紅の大旗をつかみ取ったのだ。

東海大一高戦後の藤本[右]と桑田。この桑田の初々しさを見よ![写真=BBM]


 かつての中京商の鉄腕投手で、31年から夏の3連覇を成し遂げた吉田正男さんも中日新聞の記者席から見ていたが、「アッパレと言うしかないわな」と驚いていた。吉田さんは中京商3年時から3連覇したのだが、昔の旧制中学の3年生も15歳。「でも、オレは、高等小学校経由だから、あの年(31年) は17歳。桑田には恐れ入りました、だよ」と吉田さん。

 もっとも、桑田は、この試合、池田高戦同様完封したのではなかった。PL・中村順司監督は7回途中から3年生の藤本耕投手をマウンドに送ったのだ。9回表、藤本は森屋司捕手を三振に仕留め、V投手となった。中村監督は言う。

「藤本は1日300球も打撃投手で投げたり、率先してランニングでも先頭に立ち桑田を引っ張ってくれた。本当に頭の下がる思いだった。藤本で結果がどう出ようと悔いはなかった」

 交代は、お互いに目と目が合ったからだという。「いけます」「任せた」。会話はそれだけだった。「大会前、選手とは、1度ぐらいは校歌を聞こうと話していた」と中村監督。強いチームという前評判はあったが、夏の大会出場はまだ7回目。監督と選手に強豪意識、名門意識はなかった。「選手の自主性を信じてやることですよ」。中村監督はサラリと言ったが、これには、監督に相当な忍耐力が必要だ。すぐ叱ったり、手を上げたりでは、選手は萎縮してしまう。「こういう監督がいるからPLは強いんだなあ」と思ったことだった。

 桑田からバトンを受けた藤本は「どうなることかと思ったけど、7回の2点目を自分で挙げた(内野安打)とき、これでいけると思いました」。「いま、一番したいことは?」の問いには「実家は大阪で布団屋をやっているんですが、ウチのふかふか布団で眠りたいです」。8カ月も実家には帰っていなかったのだ。

 清原和博内野手のことを忘れていた。決勝戦では2回裏に先制ホーマー。「球場に来るバスで、桑田に必ず打ったる!と約束したんです」。

 こういう「PLの夏」を、もう1度見たいのである。
岡江昇三郎のWEEKLY COLUMN

岡江昇三郎のWEEKLY COLUMN

プロ野球観戦歴44年のベースボールライター・岡江昇三郎の連載コラム。

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