
矢野新監督には周囲を見て学び、自身の“監督像”を築いてもらいたい/写真=太田裕史
矢野新監督に伝えたひと言は
秋季キャンプもそろそろ打ち上げ。
阪神の新監督・
矢野燿大はご存じのように、私が阪神監督時代、正捕手を務めていた。新監督らしく、初日から精力的に動き回っていると新聞で読んだが、どんな18日間になっただろう。
矢野は就任発表からほどないころ、律儀にもわが家まで挨拶しに来てくれた。
「そうか。阪神の監督はいろいろ大変だが、頑張れよ」と励まし、送り出した。余計なことを言って、変に気にされたら矢野のためにならない。ただ老婆心ながら、「担当記者をどうコントロールするかが、一番の課題になるぞ」とは付け加えておいた。
12球団で最も難しく、苦労するのが阪神の監督だ。それを引き受けてしまったのは、私の野球人生最大の汚点。行かなきゃよかった、と今も思う。
マスコミ対策が課題と言った意味は、関西在住の方ならよく分かるだろう。阪神は今なお関西随一の人気チーム。毎日毎日、阪神が全スポーツ紙の一面を飾っている。その記事を作り、新聞を売らんがために、記者は阪神のあること、ないこと書いていく。しかし、それで選手にそっぽを向かれては、メシのタネに困ってしまう。だから、選手の悪口は絶対に書かない。勝てば官軍〜ではなく、勝てば選手、負ければ(敗因は)監督。売れる紙面を作りたい気持ちは分かるが、ファンだけでなく選手も新聞を読むことを考え、あまりいい加減なことは書かないでほしいものだ。
何より良くないのは、そういった担当記者の存在が、チーム内に派閥を生む遠因になっていること。過去には
小山正明さんと
村山実、村山と
吉田義男さん、
江夏豊と
田淵幸一、
掛布雅之と
岡田彰布……。新入団の選手が「お前はどっち派だ?」と聞かれたなんて、笑えない話もある。
弱いから派閥ができるのか、派閥があるから弱いのか。いずれにしてもそれでは永久に強くはなれないだろう。
“監督の器”とはどこで決まるのか
なんの縁もなかった阪神から監督就任の打診を受けたとき、私は「同じ野球だから、どこも一緒だろう」と考え、関西へ行った。ところが阪神で教わったのは、自分の“カラー”が合わない球団もある、ということだった。そのあたり、よく観察してから決めないと失敗する。
簡単に言ってしまえば、あれは関西人気質なのだ。そう表現すると皆、「野村さんも京都出身だから関西人じゃないですか」と言うが、日本海に面したド田舎・京丹後出身の私である。やはり違う。
矢野はクソが付くくらい真面目で、クセのない印象。監督就任を聞いたとき、正直「大丈夫かなあ」と心配だった。現役時代はセオリーどおりの、無難なリードばかり。そこが物足りないところでもあったのだが、そういう性格だからこそ私の話を真剣に聞いていたし、常に勉強意欲を持っていた。監督は野球のプロフェッショナル、野球博士たれ。そこは、問題ないだろう。
私はいつも、考える。監督の器、器量はどこで決まるのか。その人の持っている雰囲気か、言葉か。やはり監督の話すひと言、ひと言がすべて器を作っていくのだと思う。何度も言うが、『信は万物の基を成す』。信頼は、そう簡単には育たない。選手からの信頼を勝ち取るには、それ相応の立ち居振る舞い、言葉が必要だ。監督ともなれば、選手の前で話す機会が圧倒的に多くなる。そこでの一語、一語を軽々しく発してはいけない。それを選手は聞き、受け止めて、監督を判断するのだから。
コミュニケーションが必要とはいえ、友達のように仲良くするのもまた違う。いかに信頼を勝ち取るか。私はむしろ、「何も言わない」のも一つのテかな、と思うのだが、どうだろう。
矢野はこれから先、自分で自分の“監督像”を作っていくことになる。誰もそれは、教えてくれない。せいぜい周囲を見て学ぶしかない。
私は現役引退後、一度は評論家としてネット裏から野球を見た。誰にも負けない評論家になることが目標だった。それが「いいところに目を付けている」とか「いいことを言う」とか評価され、とんでもない方向へ進んでしまった。
しかし、何か物事を見るとき、人は一歩引いたほうがよく見える。直接それだけに焦点を当て続けるより、視野が広がるものだ。矢野も現役引退後、5年間評論家を務めた。私の言っている意味は分かるだろう。
阪神の歴史は長い。その中で長らく培われてきた悪い伝統、習慣、気質を新しい世代が払いのけることができるかどうか。それが、阪神再生へのカギになるはずだ。
PROFILE のむら・かつや●1935年6月29日生まれ。京都府出身。54年にテスト生として南海に入団し、56年からレギュラーに。78年にロッテ、79年に西武に移籍し、80年に引退。歴代2位の通算657本塁打、戦後初の三冠王に輝いた強打と、巧みなリードで球界を代表する捕手として活躍した。引退後は90〜98年までヤクルト、99〜2001年まで阪神、03〜05年までシダックス(社会人)、06〜09年まで楽天で監督を務め、数々の名選手を育て上げた。その後は野球解説者として活躍、2020年2月11日に84歳で逝去。