日本一に貢献した建山義紀。メジャーにも挑戦しレンジャーズでリーグ優勝も経験しながらマイナー生活も送った。だが引退のときには悔いは一切残らなかったという。自分を律し、厳しくやってきたからこそ、プロ野球人生は充実感に満ちていた。今後はその大好きな野球を支える立場でかかわっていくという。 取材・構成=椎屋博幸 写真=BBM、Getty Images 節制をしなくていい生活
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阪神での引退記者会見から約4カ月経ちました。あのときには気持ちがすっきりしたと話していました。
建山 はい。今でもホッとしている気持ちは大きいですね。トレーニングもしなくていいですし、節制もしなくていいので。ラーメンも何も考えずに食べていいですし、大好きなお酒も考えずに飲めますしね(笑)。今まで頑張ってやってきたことをやらなくてよくなったのですから。
――節制をしなくていい……。
建山 現役時代、ラーメンはほとんど食べなかったですからね。焼き肉も大好きなのですが、これも控えていました。今はそれがどんなに食べてもいいですからね。その代わりに5キロ太りました。お腹周りに付きましたね。節制しないと(笑)。でも、今は本当に何もしたくないんですよ。解放感の中で生活していますね。
――解放感……。
建山 何でもできてうれしいという感じです。我慢していた分だけの解放感です。お酒も2008、09年は一滴も飲まなかったですからね。ただこの解放感の中で、本当に体調管理が大事になってきますね。今まで断り続けてきた食事の誘いなども行けますし、友達も食事に誘えるようになりましたから、楽しいんですよ。

1999年ドラフト2位で日本ハムへ。まだ本拠地が東京で、なかなか胸を張れなかったという
――今まではそうはいかなかった。
建山 自主トレなども朝早くに行っていましたので、夜は食事や飲みにはいけませんでした。というより、遊びに行けないように朝に設定していたんですね。そうやって自己管理をしていました。
――我慢することが多かったんですね。
建山 しんどいことの方が多かったですね、プロ野球人生は。プロ野球に入る前からたくさん練習をしてきて努力はしてきたんですが、プロに入り、成績を出してきて、年俸も上がっていくにつれて、より自分に厳しくしていく意識が強くなっていきましたね。そして、厳しくやればやっただけ自分にそれが跳ね返ってきました。だからこそ、苦しめて、練習をたくさんして、節制しないと、喜びが味わえないという感覚でいました。厳しくすることが自分への原動力にはなったんですけどね。
――夢だった場所が現実の世界へと変わったわけですね。
建山 そうです。プロ生活も順風満帆で来たわけではなく、3、4年目でつまずきましたからね。ここを乗り切るために精神的に追い込まれることもありました。
――1、2年目は先発が中心でした。
建山 もう2年目の後半から先発で通用しなくなっていき、3年目はまったく勝てなくなりました。そこから中継ぎになり……それが自分の転換期になりました。やはり3年目が一番きつかったですね。10試合しか一軍で投げられなかったですから。
――プロ6年目の04年に最優秀中継ぎのタイトルを獲得しました。
建山 あれはラッキーでしたね。該当者がいなくて僕が選ばれたという感じです。このときが6年目で、ようやく中継ぎピッチャーとしてやっていけるかなと感じ出したときです。このころですね、試合での責任感が芽生えてきたのは。その責任感が備わってきたことで、プロとしての自覚が芽生え、成績もついてきだしたといういい循環ができましたね。

プロ6年目に中継ぎへ転向し最優秀中継ぎのタイトルを獲得。さらにプロとしての自覚が芽生えていった
――中継ぎが自分に合っているな、と思われた出来事などはありますか。
建山 先発をするとどうしても・・・
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