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惜別球人2018

本多雄一 引退惜別インタビュー 常に100%を求めて 「“常に一生懸命やる”のが自分の持ち味。そこを変えるということは納得いかない」

 

10月13日、今年も両リーグのレギュラーシーズンが終わりを告げた。それと同時に自らのプロ野球人生に幕を下ろした男たちもいる。引退選手にスポットを当てるオフ恒例の『惜別球人』。今週は2本立てでお届けしよう。まずは地元・福岡で“走”にこだわり続けた本多雄一だ。笑顔が印象的な背番号「46」は、タイトルにも、自分のプレーにも貪欲に、決して妥協することなく、13年を駆け抜けた。
取材・構成=菅原梨恵 写真=湯浅芳昭、BBM


首痛と家族への思い


 最後の最後まで、本多雄一は本当に笑顔だった。しかし、その笑顔の裏には隠された葛藤があった。2012年に痛めた首は年々、“鷹のスピードスター”を苦しめ、ついには大きな決断をさせた。

──10月6日の引退試合(西武戦、ヤフオクドーム)から、数日が経ちました。

本多 試合を終えて、セレモニーを終えて、あらためて「引退したんだな」という実感があります。10月6日は13年間の思いをかみしめながら試合をさせてもらいました。

──1313試合に出場。引退の最後の試合は、これまでの試合とは違いましたか。

本多 これまでの試合はやはり準備を含めて試合に臨む気持ちというか、気を張っていました。引退試合は、最後くらいは思う存分、野球というものを楽しみたいなと思って試合に臨みましたね。プロ生活を13年間やらせてもらって、心から「うわー、いま楽しいな」と思うことってそうなかったんです。でも最後の引退試合は、心からありがとうの気持ちを込めて野球に向き合いたいな、楽しくやりたいなと。

──いかがでしたか。

本多 ものすごく楽しみましたよ!(笑)。チームメートの喜びも一緒に共感できましたし、守っているときも、打っているときも、走っているときも“楽しい”をかみしめながらやれました。


──第4打席で三塁打、第5打席では二塁打。見ているほうとしては、まだまだやれるのでは、と感じてしまいました。

本多 周りからはね、「まだできるんじゃないか」と言ってもらって。そういうふうに見えてもおかしくないと思いますし、自分でもあれだけ最終戦でやれた。三塁打、二塁打、盗塁も。記録にはならなかったですけど(次打者・上林誠知への死球)、ああやってスタートを切れたことが自分にとってもよかったです。しかし、まだできる中でも、自分には首の痛みというものがあって……。(引退を)決断するにあたって、すごく迷いもありましたね。

──引退を決断する一番の要因となった首の痛みはいまもありますか。

本多 いまは出ていないですが、プロ野球選手というのは毎日仕事がある。首に関してはケアが必要ですし、ケアは毎日やってますけど、したから出ないというわけでもないんですよね。やっぱりふとしたとき、万全な状態でもたまに出たりしますし、疲れが溜まってくると出やすいというのもあります。これに関しては本当に自分でもいつ起こるか分からないんです。

──最初に首を痛めたのは2012年でしたよね。

本多 12年に痛めてから4年間くらいは痛みが出たり出なかったりという状態が続き、痛みが出れば薬を飲んで、というのを繰り返してきました。しかし、昨年くらいからですかね……。いままでとは違った痛みが出てきたんです。そうした中で思うように動けない自分がいた。それで決断に至りましたね。

──野球が続けられないような痛みもあったのですか。

本多 昨年も2回くらいありました。今年は3回くらいですかね、少なくとも。電気が走るんですよ。そうなると、もう野球どころじゃないですし、私生活を過ごすだけでキツイ。野球をやりたい気持ちはもちろんありましたが、もう“野球ができる体”ではなかったというのが正直なところです。

──引退を決断したのはいつだったのでしょう。

本多 ギリギリまで考えました。それこそ「まだやれるんじゃないか」と自分でも思いましたし。と同時に首の痛みのことを考えると、また痛みが出て長い期間野球ができないのは自分の中では「苦しい」と思いました。その葛藤はありましたよね。

──最初に相談したのは。

本多 妻です。(引退の)思いは今年出たわけじゃなくて、昨年くらいから出てきていました。妻は理解してくれていて、ずっと話し合ってきました。今年はまた再発というか、首に痛みが出る回数が多かったんです。それこそ妻に「また首痛が出た」と言うのがイヤになるくらい。それだけ自分自身の気持ちが沈んだ時期はありましたね。

──引退会見でもセレモニーでも奥様の話をされるときが一番感極まっているように見えました。

本多 実際、家族を養っていかないといけないとなると、どうしても子どもの顔も浮かぶし、妻の顔も浮かぶ。家族に対する思いと、野球ができない自分の精神的な苦しみ。申し訳ないという思いもありましたが、妻と話し合いながら出した結果がこれ(引退)でした。

引退試合では終始笑顔が見られた本多だったが、セレモニーでは2人の娘さんから花束を贈られ涙


──ケガと向き合っていくうえで、プレースタイルを変えようなどと考えたことは。

本多 試合にも100%、練習にも100%やらないと気が済まなかった自分がいた。プレースタイルに関しては本当に目に見えない微妙なところを変えたことはありましたけど、大幅に変えることはなかったですね。

──それはご自身のポリシーとしてでしょうか。

本多 もちろん。“常に一生懸命やる”ということが自分の持ち味だと思っていたんで、そこを変えるということは納得いかない。加減するというのは絶対にイヤだった。常に100%でプレーすることを心がけていた中で、首のケガが一番邪魔しましたね。

──100%でプレーできないならば引退。だから、引退会見でも「後悔はない」とはっきり口にされたんですね。

本多 手を抜くことって一番簡単なんですけど、逆に気持ちを入れるってすごく難しいことだと思うんですよ。自分は常に気持ちを入れて野球をやってきた。手を抜くっていう言い方が合っているかは分からないんですけど、自分に関して加減をするというのはあり得なかった。やはり野球選手として「良いプレーを見せたい」「歓声を浴びたい」というところからも100%を求めたのかもしれないですね。

試合にも練習にも100%。攻守走すべてで全力だった


速く走ることへのこだわり


 少年時代に描いた野球選手への淡いあこがれはやがて現実のものとなる。2006年大学生・社会人ドラフト5巡目でソフトバンクに入団した本多は、「足」を武器に、チームに欠かせない存在となっていった。

──少し昔を振り返っていただきたいと思います。まず、野球を始めたのはいつだったのでしょう。

本多 小学校1年生からソフトボールを始めて、中学校から硬式野球(フレッシュリーグの『大野城ガッツ』)に入って、高校は鹿児島実に進学しました。

──その過程でプロ野球選手を意識し始めたのは。

本多 それが社会人に入ってからなんですよね。小さいときは「プロ野球選手になりたい」という漠然とした夢はありましたけど、まさか現実になるとは思っていなかったですし。野球を続けてきて社会人に入って……3年目ですかね。現実的に、自分の技術と体と精神的な面と、「あっ、プロに行きたいな」と思いを強くしました。


──地元・福岡のホークスから指名を受けました。そのときの気持ちを教えてください。

本多 やはり地元の球団に入りたいという気持ちはあったので、選ばれたときは「夢のような」感じだったことは覚えていますね。「まさか夢じゃないよね?」「入ったんだよね、本当に」って。

──入団会見では足でも守備でもなく、「セールスポイントはバッティングです」と断言していました。

本多 言ってましたね。プロに入るまでは“走る選手”ではなかったんですよ。足は速いほうだったとは思うんですけど、盗塁に欲もあまりなかったですし、守備に関してもまあ普通にこなしていたという感覚だった。バッティングが好きだったからバッティングって言ったと思うんですけど、でもプロに入ったら想像と違っていて。「何を売りにするか」ということを真っ先に考えました。そのときに足が速いということは自分も確信していたんで、「盗塁」というものにたどり着いたんだと思いますね。

2006年度新入団選手発表会見にて[本多は最上段の右から2人目。中段左端は松田宣]


──走るうえで大切にしていたことは何でしょうか。

本多 『準備』です。ここぞというとき、チームが走ってほしいというときに、試合の中でそれを考えるんではなくて、練習のときから常に「良いスタートを切りたい」「良いスライディングをしたい」と考えること。自分は常々速く走りたいという欲を持っていて「どうやったら良いスタートを切れるかな」と思いながら練習していましたね。

──速く走りたいという気持ちは引退試合でも……。

本多 最後まで変わらなかったですね。やはり1盗塁でも多く走りたいですし、盗塁すればお客さんが喜んでくれます。速く走ることへの思いは13年間ぶれたことはないです。


いつかホークスのために


 盗塁王を2度獲得するなど13年間で通算342盗塁を積み上げた。そんな本多には走ること以外にもこだわり続けた“モノ”がある。そして、最後に笑顔で力強く「今後について」語ってくれた。

──最も印象に残る試合、シーンを教えてください。

本多 初めてリーグ優勝を経験できた2010年は特別です。しかも最終戦(9月26日の楽天戦、Kスタ宮城)で優勝できたというのがうれしかったですね。個人的に言えば最終戦で優勝と同時に盗塁王を獲ることができました。すごく印象深いです。当時は秋山(秋山幸二)監督で、秋山監督は“走る野球”を目指していた。それに応えられたという自分、それと同時にタイトルを獲れたときの自分……。いろんな思いがあったし、秋山監督にとっても初めての優勝だったんで「絶対優勝したい! 監督を胴上げしたい!」というチームの一体感は忘れられないですね。

2010年は最終戦、9月26日の楽天戦[Kスタ宮城]で2盗塁を奪い盗塁王に。リーグ優勝も決め、忘れられない日となった。


祝勝会ではヘルメットをかぶりはしゃぐ本多の姿も


──プロ13年間は本多さんにとって長かったですか。それとも短かったのでしょうか。

本多 長かったですね。長かったというか、いま思うと早かったとは言えないです。やはり苦しい思い出しかなかったので、優勝を除いては。練習とか、キツイ思い出しかないですね。自分の野球に取り組む姿勢がそうさせたのかもしれないですけど。常々緊張しながら試合に臨みましたし、緊張しなかった日はないと思います。

──いま、その緊張感から解放されました。

本多 少しホッとしています(笑)。ホッとはしてますけど、これから現役で野球ができないとなると、ちょっとさみしさもあります。少しホッとして、ちょっとさみしくて、それとともにスッキリ感がありますね。

──本多さんといえば、入団時からずっと背番号「46」を背負い続けてきました。

本多 「46」は入団の際に球団から提示されました。「この番号で活躍してやる!」というのが真っ先に浮かびましたね。たしかにチームから1ケタ番号というありがたい話をいただいたこともありましたが、やはり「46」という番号は特別。「ホークスの『46』=本多雄一」と言ってもらえるような人間になりたいなと思ったんで。そういう思いから「46」は絶対変えなかったですね。

──今後、「46」は……。

本多 着けたいですよ(笑)。着けたいですけど、今後、自分がどうなるかも分からないですし、「46」に対して誰が着けるのかなという楽しみもあります。僕は「46」というものをずっと意識してきた。野球だけじゃなくて車のナンバーだったり、私生活から気になって(笑)。「46」を自分の番号にしたいという思いから、逆に意識させられたというのはありましたね。

──今後については未定ということですが。

本多 野球に携わる仕事ができたら一番いいとは思います。これだけやらせてもらったんで、野球から離れたくはないですね。

──将来への具体的なビジョンはありますか。

本多 ビジョンかあ……。やはり盗塁というものにこだわってきたんで、どうしても「走塁コーチ」になりたいという夢はありますよね。いまは現役が終わったばかりでちょっと感覚が分からないですけど、ホークスの若い選手を成長させたいという気持ちはあります。今季は特にファームで若い選手と過ごすことが多かった中で、もっと教えたいなとか、自分の引き出しを出して伝えられたらなと。それがすぐには叶わなくても、いずれそういうふうな形になりたいとは思っています。

──ファンもそれを望んでいると思います。

本多 それがいままでやってきた恩返しだと思いますし、どんな仕事であれ野球に携わりたいです。

──最後にホークスの魅力を本多さんの口からお願いします。

本多 僕はプロ生活のすべてをホークスで過ごしたので、ほかのチームのことは分からないです。だけど、ホークスというチームは基本に忠実なチームだと思いますし、シートノックから元気を出して声を出してやるチーム。そういうところをこれからも変えてほしくないと思いますし、やはり一軍を見ていると、一丸となったらすごい。本当にすごいチームだなと自分でも感じながら一緒にやらせてもらったので、最後まで一軍で、一丸になることを望んでいた自分がいたんだと思いますね。

Plus 1 Story 記憶に刻まれた『初めてのタイトル・盗塁王』


2010年のプロ野球コンベンションにて片岡[右]とともに表彰を受ける本多


■先輩の背中を追いかけて

「盗塁王獲るぞ」という意識はずっとありました。やはり欲がないと獲れないですし、2010年のときは片岡(片岡易之、現・治大)さん(当時西武)が59個した後、ケガで離脱した。僕としては追いつくしかないと。残り10数試合で5盗塁くらいでしたかね。獲れたときの感情は言葉には表せないくらいでした。

 それまでの過去3年くらいも片岡さんと争って、数個差で獲れなかった時期があったんで。やはりその思いもあったからこそ、ああやって盗塁王を獲れた瞬間は「やっと獲れた」「やっと片岡さんに追いついた」とは思いましたね。タイトルは個人的なものなのでうれしさもありましたし、この世界に入ってタイトルを獲るのがこんなにも難しいものなのかと思った瞬間でもありました。

記録メモ RECORDS&TITLES


[背番号変遷]
ソフトバンク46
[主な記録]
■初出場・初打席=2006.8.4 vs.ロッテ[千葉マリン]
■初安打=2006.8.4 vs.ロッテ[千葉マリン]
■初盗塁=2006.8.4 vs.ロッテ[千葉マリン]
■初本塁打・初打点=2006.8.17 vs.楽天[フルスタ宮城]
■200犠打=2014.5.17 vs.オリックス[京セラドーム]
※史上35人目
■300盗塁=2014.5.20 vs.広島[ヤフオクドーム]
※史上28人目
[主な表彰]
■盗塁王=2010、11年
■ベストナイン=2011年
■ゴールデン・グラブ賞=2011、12年


PROFILE
ほんだ・ゆういち●1984年11月19日生まれ。福岡県出身。174cm72kg。右投左打。鹿児島実高から三菱重工名古屋を経て2006年大学生・社会人ドラフト5巡目でソフトバンクに入団。2年目の07年からはセカンドのレギュラーに定着。自慢の足でチームを支え、59盗塁で自身初タイトルとなる盗塁王を獲得した10年はリーグ優勝、60盗塁で2年連続の受賞となった翌11年は日本一の立役者の一人に。堅実・華麗な守備にも定評があり、11、12年にはゴールデン・グラブ賞を獲得。11年にはベストナインにも輝いている。今季、ファームでは三塁守備に取り組むなど積極的にチャレンジしていたが、10月1日に現役引退を発表。6日の本拠地最終戦(西武戦、ヤフオクドーム)を最後にユニフォームを脱いだ。
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