FAの人的補償による移籍、語り継がれるスーパーキャッチ、そして衝撃のガン宣告――。どんな選手とも違う、波乱のプロ野球人生だった。ただ、だから気づけたこともある。そして、この世界で生き抜くため、一年一年を勝負してきたことは、どの選手とも違いはない。 取材・構成=藤本泰祐 写真=宮原和也(インタビュー)、BBM 移籍をチャンスと思って
「一軍で戦力になれないと意味がない」が引退を決めた理由だった。プロ入りは2005年、阪神へ。ファームでは好成績も、一軍の壁は高かった。そこに降ってわいたようなFAの人的補償でのトレード。それが転機になり、広島で一軍をつかんだ。 ──引退試合で、1イニング守りましたが、センターのポジションに行くときはどんな気持ちでしたか。
赤松 不安と、「申し訳ない」という気持ちですね。引退する選手はみんなそうじゃないですか。もうやれないと思うから引退するのであって、それが一軍でプレーすることが申し訳ない。
──セレモニーのあいさつでは、ファンの方への感謝が伝わってきました。
赤松 そこは聞くほうがどう受け取るかなので、僕が判断することではないですけれども、僕はちゃんと感謝の気持ちを述べたつもりですので、それがよく伝わっていたならよかったです。
──引退を決められたのは。
赤松 まあもう、成績が物語っていますし、全然実績もない選手が、病気になって、そこから二軍でしか出てないので。事実上はクビですよ。僕の場合は、病気があったからここまで残していただいただけです。
──今年はそういう覚悟を持って臨まれた。
赤松 いやいや、それは僕だけじゃない。選手全員そうですよ。僕も今年、引退を決めましたけど、「今年一年でクビになるかもしれない」という思いは、毎年もう、ずっと一緒ですから。まあ決め手というのは、一軍でプレーできなくなったことですね。戦力にならないと意味がないですから。
──プロ入りは05年、阪神でした。ウエスタンでは1年目から首位打者、盗塁王など4冠を獲得します。
赤松 でも、一軍で出たかと言ったら出ていない(出場2試合)ので、自信にはならなかったですね。初出場で盗塁した記憶はありますが、今から思えばスタート、スピードの乗りもすべてダメでした。次の年の(一軍での)初スタメンでも4のゼロで、自分の実力はこんなもん、というのを思い知らされました。

阪神でのルーキー時代。いきなりウエスタン首位打者、盗塁王、最多得点、最高出塁率の4冠
──阪神でもうひとつ芽が出なかったところで、FAの人的補償で広島に移籍することになりました。
赤松 ここはやっぱり、切り替えて、チャンスと思ってやるしかない、と思いましたね。いいきっかけになるんですよね、トレードって。必要とされていくわけですから。「とにかく最初を頑張ろう」という気持ちで行ったので、カープでの最初の試合は思い入れがありますね。その試合は代走からで、別に何もしてないんですけど。
──08年4月29日の
巨人戦(東京ドーム)で、先頭打者本塁打でプロ初ホームラン、翌30日(同カード)も先頭打者本塁打、5月1日(同カード)にもホームランと、3試合連続弾でした。
赤松 僕にとっては、初ホームランなんて、どうでもいいことです。バッティングの選手じゃないので。完全にまぐれです。
──やはり、守備、走塁を含めての選手だと。
赤松 でも、守備、走塁も、僕、そこまでうまくないんで。ホントにうまかったらもうちょっとレギュラーで出ていると思います。
──守備では、10年8月4日の
DeNA戦(マツダ広島)で
村田修一選手のホームラン性の打球をフェンスによじ登って捕ったスーパーキャッチがありました。あれは練習していたのですか。
赤松 まあ、それだけを練習はしませんが、遊び程度で。あの打球なら、フェンスに登って、体のどこかに当てることができればファインプレーですから。完全にあれはまぐれだと思います。周りの反応がすごかったですけど、やった本人はあまりすごいと思ってないので。たまたまやったことが、そうやって注目されるだけで。

2010年8月4日の横浜戦[マツダ広島]の5回表一死、赤松は村田修一の放ったホームラン性の当たりをフェンスに登って振り向きざまにキャッチするスーパープレーを見せた
──16年には、移籍後初めての優勝も経験されます。
赤松 優勝は、チームの皆が頑張った結果だから、それはもうホントにうれしかったですね。それを目標にやっていますから。ただ、僕が貢献できたかというとどうなんでしょう。代走、守備では頑張って出てるんですけど、ヒット7本ですからね。何をもって貢献と取るか、ということですね。
今の体でやるしかない
優勝の喜びを味わったそのオフ。赤松は思いもしない宣告を受けることになる。人間ドックで発見された胃ガン。それまでの野球人生とはまた違った闘いが始まった。 ──優勝したシーズン後、人間ドックで胃ガンが発見されます。
赤松 それはもう、「信じられない」と。皆さん、なったことがないから分からないかもしれないけれども、きっとそうなるでしょう。野球どうこうという話ではないですから。最初は「初期だろう」と言われたんですけれども、そうではなかった。だから胃を(半分)切ったうえ、抗ガン剤治療もやりました。
──かなり不安でしたか。
赤松 いえ、不安ではない。不安ではないですけど、プロ野球選手としては、絶対的に不利ですよね。最初は野球を一回切り離さなければいけなかったんですけど、手術を終えて、抗ガン剤治療の段階になると「野球をやるためには何をすればいいか」と考え出すわけです。体重を落とさないように、体力を落とさないように、と考えるんですけど、胃が半分になっているから、量が取れない。効率的に栄養を取ろうと高タンパクのものを摂ると、それはそれで負担が掛かって吐いてしまう。
──それでも、野球のほうに向かっていこうという気持ちになれたのは。
赤松 手術を終えると、抗ガン剤治療もやっててしんどいけど、「(野球は)もう無理かなあ」と思う気持ちの一方で、少しずつ体が動いてくるんですよ。そんな中で、いろいろな方から手紙をいただいたりして、自分よりしんどい(大変な)状況の人もたくさんおられるんだと。そう思ったら僕なんて動けるし、まだマシやと。プロの世界にもいるわけだし、じゃあ、僕が頑張ることによって、その人たちに勇気を与えられるんじゃないかと。そこからですね。
──それで前向きに……。
赤松 いやいや、そんなんもう、病気になった人は全員、前向きにやらないと。僕のことを皆が「すごいな」と言いますけど、そんなん、手術した人は全員やってますから。今、2人に1人がガンになる時代ですから、2人に1人はすごいことやってるわけです。そう思ったら、そんなにすごくないでしょ。病気になったら、当たり前のことなんです。その当たり前のことに、弱音を吐いているようじゃダメなんです。「私は病気だから」と、そっちに逃げていってしまう人もいますけど、そうじゃないんです。当たり前のこと。僕なんて、手術もできて、抗ガン剤治療もできて、野球にも復帰できた。もう、「(その程度で)よかったね」ぐらいです。弱音を吐いたら、もっと大変な人に失礼だと思います。僕は、プロ野球選手という立場で、その病気になった。だったら、病気を克服して、野球をやることによって、そういった方々に勇気を与える、そういう使命があると思うんです。だから、立ち向かっていかなきゃいけないし、逃げては絶対にいけない。そういう職業だと思うんです。そこで僕が頑張ることで、少しでも何かを思ってくれる人がいるのであれば、やる価値はあると思ってやってきました。
──初めてグラウンドに戻ってこられたときはいかがでしたか。
赤松 初めて練習に参加したときは、「これは結構厳しいな」というのはありました。動けなかったですから。
──病気の前と後では、モノの見え方が変わる部分もありましたか。
赤松 それは多少なりともありましたが、でも言い訳にはできない。病気になったのは、もう起こったことですから。「いつまで病気を引きずるねん」という話じゃないですか。僕にとっては、現状がすべてなんです。今の体でやらなきゃいけない。今の体からどう上げていくか。まあ実際は、上がらなかったわけですけど。それが実力だったということです。球団は僕を戦力として見て、契約をしてくれているわけです。けれどやっぱり戦力にならなかった。それはちゃんと受け取らないといけない。それで「引退します」と。僕の場合は、病気があったから大目に見てもらって、ちょっと現役生活が長めになって引退がずれただけなんで。
15年もできてぜいたく
話を聞いてみると、選手としての自己評価があまりに低いことに驚くが、それでも15年間、この世界で生き抜いてきたのは確かなことだ。ほかの選手とは異なるプロ野球人生を歩み、今、思うこととは。 ──今、選手生活を振り返って、どういう思いがありますか。
赤松 いやもう、ぜいたくですよ。僕みたいな、全然成績も出していない選手が、ここまでプロでやってこられたというのはぜいたくでしかない。ホントやったら、阪神の3年でクビです。それが広島に来てからこれだけ長いことやれたというのは。トレードが転機になったと思います。だからもうぜいたくな野球人生でしたね。
──転機を生かした。
赤松 生かして、普通の成績を出したと。プロ生活を、やり切ったとかじゃなくて、もう、しがみついたと表現したほうがいいですよ。よく粘った。もともと、プロに入ってくるような選手じゃなかったんだと思います。まあ、足は速かったと思う。でも、僕より足が速い選手なんていくらでもいるし、守備のうまい選手も、バッティングのいい選手ももっといっぱいいるわけです。そう考えたら、15年って、よくやったのかなと思います。僕の場合は、代走、守備というのがあったので、ここまでできた。たぶんチームのほうも、何とかレギュラーを獲らせようとしてくれていたと思いますが、2012年ぐらいで「こいつじゃ無理だ」と判断したんだと思います。レギュラーは、やっぱり計算ができないとダメですから。ある程度試合に出たら、これぐらいヒット打って、得点はこれぐらいで、と。僕なんてそこがバラバラなんで、計算できない。そうなったら、チームとしては計算できる代走、守備のほうがまだ使えると。そのあとは、こちらもレギュラーなんてもう、全然狙ってない。生きていくにはそれしかなかった。それでも、僕の場合は生きる道がたまたまあったので、よかったんですよ。

通算136盗塁をマークするなど、足と守備で魅せた。「これがあったから生き延びられた」、「本当にうまかったらもっとレギュラーをやれているはず」という2つの思いがあるという
──来年からはコーチになりますが。
赤松 まずは選手が何を考えているのかを聞き出して、やりたいことを尊重して補ってあげることですね。選手がこちらの言うことを理解しないで、ただ練習をやっているだけでは結果も出せないし、出せたところで続かない。こうやって、こうなっているから結果がいいとか悪いとかを、分かるように教えてあげるのがコーチだと思います。
──病気を乗り越えてきた赤松さんにしかできない、社会への発信もあると思います。
赤松 もう選手じゃないので、僕にフォーカスされることはないと思いますけど、何かしら発信していかないと、僕が頑張っていることが伝わらないので、そこは何か考えないといけないですね。
──最後に、現役生活を支えてくださったファンの方々に。
赤松 ホントに全然すごくない成績ですいません、としか言いようがないですね。ファンの方は文句がいっぱいあったと思います。ホントすいませんでしたと。僕、自分に自信は持ってない選手なんで。病気のことってなると、僕だけのことじゃなくて、苦しんでる方がいっぱいおられますんで、僕が発信をしなくちゃいけない立場なんですけど、野球選手として雑誌で野球のことを話すとなると……、こんなショボい成績で話すのはホントに申し訳ないと。そういう気持ちなんですよ。チームの中にも、もっとすごい選手、いっぱいいますしね。
Plus 1 STORY プロ15年間で実感した「これぞプロフェッショナル」
■石井琢朗さんの準備 僕は石井琢朗さんですね。準備とかにすごく時間をかける方で、誰よりも早く球場に来て、誰よりもアップを多くやって、誰よりも練習していたので。僕らも練習量はやってましたけど、それ以上。「それぐらいやらないと、2400本もヒットは打てないんだな」と思いました。コーチになられてからも、選手全員に手帳を配って、「自分は他人からどう見られているのか」をそれぞれに書かせたり、ミーティングも熱心にやってくださいました。
記録メモ RECORDS&TITLES
[背番号変遷] 阪神52(2005〜07)→広島38(08〜19)
[主な記録] ■初出場=2005.10.4 vs.横浜[甲子園]
■初盗塁=2005.10.4 vs.横浜[甲子園]
■初安打=2006.10.14 vs.広島[広島市民]
■初打点=2007.4.15 vs.横浜[甲子園]
■初本塁打=2008.4.29vs.巨人[東京ドーム]
[主な表彰] ゴールデン・グラブ賞=2010年
オールスターゲーム マツダアクセラ賞=2009年
PROFILE あかまつ・まさと●1982年9月6日生まれ、京都府出身。182cm70kg。右投右打。平安高から立命大を経てドラフト6巡目で2005年に阪神に入団。07年オフ、
新井貴浩のFA移籍に伴う人的補償で広島に移籍すると、08年からレギュラーに。俊足と中堅守備が売り物で、2010年に見せたスーパーキャッチは語り草。16年オフに胃ガンが見つかり、17年はまず手術と治療に専念、7月から練習に復帰した。戦力としての一軍復帰を目指すもかなわず、19年限りで引退。