アバウトなコントロールでも長いイニングを投げ切る。そこには「暴れ馬」と呼ばれた強い真っすぐがあった。プロ生活17年間で4度の日本一に貢献し、中日とソフトバンクの黄金期を支えた。その根底には、コツコツと努力し手を抜かない毎日の積み重ねがある。悔いはなく現役生活に別れを告げ、新たな指導者の道で輝く。 取材・構成=椎屋博幸 写真=宮原和也、BBM 
[中日2005~2013年]プロ1年目から先発ローテーションに入り、中日の黄金期を支えた
野球の原点は父親との金山川沿いの道
高校時代は県立の進学校。大学は地元北九州の市立大。野球のエリート校からプロ入りしたわけではない。入団した中日は、当時投手力はリーグ屈指の戦力。その中で1年目から開幕先発ローテーション入りを果たした。強い球が投げられたのは、子どものころからの父親との二人三脚で歩んだ道があったからだ。 ──現役生活はやり切った感じはありますか。
中田 それはもう、駆け抜けたなという感覚ですし、悔いはないですね。
──中日に入団して、初めてブルペンに入ったときは、手応えを感じながら投げていたのでしょうか。
中田 多分、どんな投手も同じことを感じると思うのですが「すごいところに来てしまった」と思いましたね(笑)。それまで自分のブルペンの横に145キロ以上を投げる投手はいなかったですから。それが全員それくらいのボールを投げていましたし、ビシビシ、コントロールよく決まっていました。
──当時はすごい投手陣でしたよね。
中田 川上憲伸さん、
山本昌さん、中継ぎ・リリーフでは
落合英二さん、平井(
平井正史)さんに岩瀬(
岩瀬仁紀)さんというそうそうたるメンバーでしたから、やばいところに来たと思いましたね、正直。それに加え、当時まだ一軍でそこまで活躍していなくて一軍の春季キャンプに参加している若手先輩投手の方のキャッチボールを見て衝撃を受けました。こんなすごい球を投げるんだ、という。
──焦りは当然ありましたよね。
中田 それはなかったんです。ひよっこだと思っていましたから(笑)。亡くなられたのですが、九州担当スカウトの渡辺(渡辺麿史)さんから、キャンプに入る前から「絶対周りに振り回されるから、自分のペースを守っていこう」とアドバイスをもらっていましたので、2月は自分のペースは守りながら、アマチュア時代と同じような調整をし、我慢しながら投げていました。2月の後半から実戦で投げだし、3月のオープン戦も成績を残せ、開幕先発ローテに入れました。渡辺さんのお陰です。
──そのアドバイスを守ったのが本当によかったのですね。
中田 のちのち、ブルペン捕手の方から当時のことを言われたんです。キャンプイン直後の僕の球は「プロで本当に通用するのか!?」というボールだったけど、終盤から本当によくなってきたということでした。
──そのときくらいですか? 落合監督がブルペンを見て「暴れ馬」ということを言われたのは。
中田 実は1年目の春のキャンプでは・・・
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