そのキャリアを日本ハムでスタートさせ、セ・パ両リーグを経験。ソフトバンクでは日本一を経験したが、常にスポットが当たる存在というわけではなかった。7つの背番号を背負った貴重なバイプレーヤーが、プロでの17年間を振り返る。 取材・文=阿部ちはる 写真=井沢雄一郎、BBM プロ野球生活17年の間に、4球団を渡り歩いてきた。そのがむしゃらで泥臭いプレー同様、野球に対しても真っすぐ、ひたむきだった。決して順調だったとは言えないプロ野球生活。だからこそ、得たものは大きい。特別なタイトルを獲得したわけではないが、守備ではユーティリティーでありながら一級品の技術力を兼ね備え、野手としてはスタメンでも代打でも守備固めでも、どの状況からでも試合に入っていき結果を残せる技術と精神力を兼ね備えていた。ファンの心に残る笑顔とプレー。その原点と信念を教えてもらった。 ──17年間お疲れさまでした。第二の人生は
楽天の二軍打撃コーチとしてスタートさせることになりました。
川島 コーチ1年目ということもあり、こんなにやることが多いのかと、いろいろなことを考えながらやっています。とても新鮮な気持ちですよ。
──練習をしない日々というのはどうですか。
川島 体がすごくラクですね。あんなにきついことをしていたんだとあらためて思います。現役のときはそれが当たり前だったので気づかなかったですけど、今になってその大変さが分かりました。あと、お腹がすかなくなっちゃった(笑)。動いてないから。
──あらためて、引退を決断した理由を教えてください。
川島 僕自身は元気でしたし痛いところもなかったので、正直まだやれるという思いもなかったわけではありません。ただ、楽天に来て1年お世話になって、若い子と一緒に試合とかもした中でコーチの話を受けたときに、『自分はあと何年現役ができるんだ? それよりも若い選手たちが一軍で少しでも、一人でもいい思いができるようにサポートするのも悪くないな』と。そう考えてしまった時点で選手は終わりだなと、コーチを引き受けようという思いになりましたね。17年間突っ走ってきましたのでね。こんな選手でしたけど、よくやったなと思います。
──2006年に大学・社会人ドラフト3巡目で日本ハムに入団。1年目から一軍の春季キャンプに参加し、開幕一軍もつかむなど順調なスタートを切りました。
川島 まあ楽勝だなと思いました(笑)。ウソです、ウソです。オープン戦の1打席目にサヨナラホームランを打ったのですが、その瞬間だけ、楽勝だなと思いました。ですが、その後は『こんなんじゃない!』と思いながらの日々でしたね。
──初打点はヘッドスライディングでもぎ取りました。必死な思いの表れだったのですね。
川島 でも、ヘッドスライディングはケガのリスクがあるので、チームでは禁止だったんですよ。それでも1点が欲しかったので。体が勝手に動いてしまいました。
──やはり怒られたのでしょうか。
川島 怒られましたね。怒られましたけど、新庄(
新庄剛志、現日本ハム監督)さんや小笠原(
小笠原道大、現
巨人コーチ)さんとかがそんな怒ることじゃないとコーチ室に乗り込んできてくれたんです。『チームが勝ったじゃないか!』って。なんてカッコいい人たちなんだ! と思いました。いい先輩がついていてくれましたね。
──当時からスター選手でしたから、うれしい出来事ですよね。やはり開幕してからは必死だったわけですね。
川島 やめるまで、そうでしたね。
──2年目からは外野手登録となります。
川島 チームの方針もあり、1年目から外野守備の練習はしていました。当時・・・
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