背番号14がマウンドに立てば誰もが勝利を確信した。2019年の連覇時には胴上げ投手になり、セットアッパー、クローザーでもタイトルを獲得。“負けない気持ち”を持ち続けた右腕は12年間、ライオンズのリリーフとして存在感を発揮した。 取材・構成=小林光男 写真=BBM 
引退試合では全球ストレート。3球目を岡大海に左前打とされるも全力で投げ切った
衝撃を受けたサファテの直球
今年4月で36歳。ベテランの域に入り、毎年1年勝負の気構えでシーズンに臨んでいた。昨年は40試合登板で4勝4敗19セーブ6ホールド、防御率5.45。キャンプから今年に懸ける強い決意があったが、成績が伴ってこない。12試合登板で0勝2敗3ホールド、防御率4.09。6月15日に一軍選手登録を抹消されると二軍暮らしが続く。潔く8月には引退を決断。9月28日のロッテ戦(ベルーナ)がラストゲームとなり、盛大な引退セレモニーでチームメート、ナインから見送られた。 ――引退試合から1カ月がたちましたが、現在の心境は。
増田 これまで日常に野球がありましたから寂しさはあります。今は朝起きて出掛けなくてもいいし、家でゆっくりしていることのほうが多い。子どもたちは僕が毎日、家にいるのでうれしいと思っているみたいです。これまでの野球人生を振り返るようなこともないですし、ゆっくりしながらテレビを見て、お昼になったらご飯を食べて、と。毎日、休日のような過ごし方をしています。
――プロ入り当初を考えると、12年もユニフォームを着続けることができると思いましたか。
増田 正直、こんなに長く現役生活を続けることができるとは思わなかったですね。1年目、南郷キャンプで練習をスタートしたとき、ブルペンで周りの先輩、後輩のピッチングを見て「プロでやっていけるのかな」と感じました。初日からどんどんピッチャーが投げていっていたので。
――特に衝撃を受けたのは。
増田 スピードです。全然違いました。僕は入団当初からリリーフでしたが、当時はちょうど
広島から移籍してきたばかりの
サファテがいました。サファテが投げ込む力のあるボールを見て、一番衝撃を受けましたね。この輪の中に割って入っていけるのか。相当頑張らないといけないと気を引き締めました。
――強烈な投手がいる中で生き残りをかけるために試みたことは。
増田 僕も社会人時代から真っすぐを軸に抑えていく投手だったので、そこをもう一度取り戻すというか、見直すというか。実は春先、まったくピッチングの状態が上がらなかったんです。だから、フォームのことなど、いろいろな部分で試行錯誤を重ねましたね。3月には左脇腹をケガしたので、5月下旬くらいから投げ始めて、夏くらいからしっくりくるようになりました。
――増田さんが投げるストレートはカットするのが特徴でした。
増田 真っスラするというのは、まったく意識していませんでした。ボールを受けてくれていた銀さん(
炭谷銀仁朗)、上本(
上本達之)さんが「結構滑っている」と話してくれたことがきっかけです。それで自分の武器にしたような感じです。
――理想のストレートはあったのでしょうか。
増田 当初はスピードを求めていました。1年目もまず、スピードを取り戻すことに力を注いで。そのころは、まだ150キロを超えるストレートを投げる投手は多くなかったので、まずはそこを目指していました。でも年々、「スピードだけではない」ということを感じるようになりました。たとえ球速が出ていても、打たれることが多かったですから。いろいろと経験を重ねていくうちに、ストレートには空振りを取れるキレ、制球力を求めるようになりましたね。
セットアッパー、クローザーで違う意識
プロ野球人生のほとんどをリリーバーとして過ごした。セットアッパー、クローザーと大きなプレッシャーのかかる場面を任されたが、つらかったことも多い。それでも右腕を振り続けられたのはファン、そして家族の存在があったから。通算194セーブと過去10人しか記録していない200セーブに届かなかった。「悔いがないと言えばウソになる。でも自分の中では精いっぱいやった」。任された場面で手を抜かずにやり抜いたのは確かだ。 ――プロ初登板のことは覚えていますか(2013年6月13日
中日戦=
西武ドーム)。
増田 同点の延長11回に登板したんですけど、先頭打者のピッチャーゴロをはじいて内野安打にしてしまったんです。そこから始まって、最終的に勝ち越されてしまったのが反省点でした。プロ初登板だったので緊張があって、気持ちが落ち着いていなかったんだと思います。
――1年目は先発マウンドにも2試合、立っていますね(9月26日
楽天戦、10月3日
ソフトバンク戦=ともに西武ドーム)。
増田 そのときは確か連戦が続いていたんですよ。なので、今で言うブルペンデーという感じでの起用でした。先発という先発ではない。いつもと同じように、リリーフで投げるイメージで試合に入っていきました。
――12年間の現役生活で先発はこの2試合のみで残り558試合はすべてリリーフ。もし、生まれ変わって野球をやったら、リリーフをやりたいですか。
増田 う〜ん、難しいですね。先発をやりたい気持ちもあります。確かに先発もしんどいと思いますよ。基本的に1週間に1度の登板で勝てない時期が続くと……。でも、リリーフも気持ちの面で毎日しんどいですから。どっちもやらないほうがいいんじゃないですか(笑)。
――しんどさはどのようにして乗り越えていましたか。
増田 やっぱり、相手を抑えたり、最後を締めてチームを勝利に結び付けたりしたときに感じる喜びは苦しさがある分、大きかったですから。それを味わいたくて頑張れた部分はあると思います。
――増田さんはリリーフに必要な資質である気持ちの切り替えが抜群だと言われていました。
増田 そういうふうに見せていたという部分もあります。周りに気を使われたくなかったですから。どんな状況のときでも、いつもの姿を見せるように頑張っていました。特にここ数年はしんどいときのほうが多かったですけど年齢も年齢ですし、いつものように振る舞っていましたね。
――しかし、それはすごくストレスがたまることだと思います。
増田 たまりますよね。でも、家族、子どもたちの顔を見ると頑張ろうという気持ちが自然と湧き上がってきました。そこが、ここ数年の大きなモチベーションとなって頑張れたところです。

引退セレモニーには愛する子どもたちも駆け付けた
――15年には42HPで最優秀中継ぎ、20年には33セーブで最多セーブを獲得しました。セットアッパーとクローザーの違いはどのような点に感じましたか。
増田 セットアッパーの場合、僕の理想は先発などからバ
トンをもらって、そのままクローザーに渡す。極力、打たれることなく、1点も与えない。要は流れを壊したくないということです。3対0だったら、1安打も許さず、1点も与えず、そのままつなぐイメージです。クローザーは最後を締める緊張感がある役割を担うので、極力いい流れでマウンドに立たせたい。ただ、それはあくまで理想で、ランナーを許したらゼロで、1点を取られたら最少失点でベンチに帰ることを考えていました。一方、クローザーは3対0なら2点取られてもOK。とにかく勝ち切るイメージでした。経験を重ねていく中で自然とそう考えるようになりました。とにかく、両方経験して、それぞれ責任のある役割ですし、しんどさはあります。
――クローザーとして必要な資質はどういったものがあるでしょうか。
増田 やっぱり気持ちじゃないですかね。状態がいいときも悪いときも、チームが勝っていたらマウンドに行かないといけませんし。それはセットアッパーも同じです。あとは、マウンドでどれだけ“対打者”に集中できるか。状態が悪いと自分のことを気にしてしまう。バッターと対戦して抑えないとアウトも取れないし、試合も終わらない。それなのに自分に気が向いていてはダメですから。
――そのためにも普段の練習をしっかり行って準備していた。
増田 そうですね。不安を解消するというか、「試合の準備がいつもどおりにできた」と思うことがモチベーションになっていました。
何よりもファンに喜んでもらうために
大きなケガをすることもなかった。「練習で培った体力が生きてきたのかなと思います」と自身は胸を張る。さらに周囲から信頼され、マウンドに送り出されたことも大きかった。目標にした存在の背中も励みになった。そしてライオンズファンにはおなじみの登場曲に背中を押され――。自分一人の力だけでは決してプロ野球人生を全うすることはできなかった。 ――20年は史上3人目のシーズン無敗のセーブ王でもありました。
増田 自分一人で達成できた記録だとは思っていません。僕が失敗しても野手の皆さんに助けてもらったこともあったので。中継ぎでもタイトルを獲得しましたが、同じ気持ちです。だから感謝の気持ちのほうが強いですね。そういう場面で起用してくれた監督、コーチやチームメート、サポートしてくれる人がいて、その場に立てて結果を残せたと思います。

2020年には48試合登板、5勝0敗33セーブで最多セーブに。史上3人目の無敗のセーブ王だった
――プロ野球人生の中で掛けられた言葉で印象に残っているのは?
増田 例えば昨年、シーズン途中からクローザーを任されましたが、失敗してしまったときに
松井稼頭央監督から「使っているのは俺だから」と言葉を掛けられました。その期待に応えられなかった申し訳なさはずっと心にありましたね。でも、考えてみれば、そういった言葉は投手コーチからはよくありました。「思い切ってやれ」と言われれば力も出しやすいですし、チームに貢献しようという思いはより強くなります。どこかで気持ちが弱くなっていたとしても、そういう言葉をもらうと前を向くことができました。
――対戦していて燃えた打者はいますか。
増田 やっぱり1988年世代の同級生ですかね。柳田(
柳田悠岐、ソフトバンク)など、いい打者がいっぱいいるので。彼らは僕より先にプロに入り、プロ歴も長いので、早く追いつこうと思って頑張っていました。

敵味方問わず、同級生の存在は大きな励みとなった[左は現広島の秋山翔吾]
――他球団のリリーバーにライバル意識は?
増田 すごい人ばかりなので、ひたすら背中を見て追い掛けていました。特に平野(
平野佳寿)さん、岸田(
岸田護、現
オリックス監督)さんらオリックスのリリーバーとは一緒に自主トレを行っていましたから。練習に取り組む姿勢がすごいな、と。いつも変わらないことをして。思うようにいかないときでも、一緒のことを続けられるのはなかなか難しいんですよ。それは内海(
内海哲也、現
巨人投手コーチ)さんも同様でした。長い間、プレーしている先輩方は、そういう姿勢を貫いているから、後輩も背中を追い掛けるのだなと思いました。そう言えば岸田さんはオリックスの監督になりましたね。びっくりしました。今でも追い掛けている存在ですけど、どんどん背中が遠くなっています(笑)。
――それにしても普段は選手の誰もが「優しい」と言う増田さんが、マウンドで一変して強い気持ちで打者を抑え込んでいたのが不思議です。
増田 相手と戦っているわけなので、負けたくない気持ちは自然と出てきます。それに勝たないとファンの皆さんに喜んでもらえません。普段は、誰かと戦っているわけではありませんから(笑)。
――登場曲として長年使用したベリー
グッドマンの『ライオン』も「負けない気持ちがあるから〜」の歌詞で始まります。
増田 ファンの皆さんもそうですし、この登場曲があったから長い間、プロのマウンドに立ち続けることができたと思います。すごく僕の力になってくれた部分は多々あります。本当に日課のように耳にしていましたからね。子どもたちが好きで、家でも曲が流れてくることがあるんですけど、「もうマウンドで聞くことはないんだ」と思って寂しくなっちゃうんですよね(笑)。

引退セレモニーではナインの手によって胴上げ。背番号と同じく14回、宙を舞った
<RECORDS&TITLES>記録メモ
[背番号] 14(2013〜24)
[投手] ■初登板=2013.6.13vs.中日(西武ドーム)
■初奪三振=2013.6.15vs.
DeNA(西武ドーム)
■初ホールド=2013.6.23vs.オリックス(西武ドーム)
■初勝利=2013.6.30vs.
日本ハム(札幌ドーム)
■初セーブ=2015.9.8vs.オリックス(西武プリンス)
■100セーブ=2019.9.11vs.ソフトバンク(メットライフ)
■150セーブ=2022.5.1vs.オリックス(京セラドーム)
■100ホールド=2022.8.10vs.日本ハム(札幌ドーム)
■500試合登板=2022.9.8vs.オリックス(ベルーナ)
■年度別投手成績 
※アミカケはリーグ最多
<Memorial Scene>思い出のあの試合

2019.9.24/ロッテ戦[ZOZOマリン]
忘れられない胴上げ投手 「思い出の試合はたくさんありますが、リーグ連覇の瞬間にマウンドにいたことは忘れられないです。『抑えてやろう』という気持ちが強かったです。捕手は友哉(
森友哉、現オリックス)でした。友哉は『捕手をやめたほうがいい』と周囲から酷評された時期もありましたが、本人は捕手で一人前になる、と。それを目指して頑張っている姿をずっと見てきていました。だからバッテリーを組んでいるときは、それに応えてあげたいという気持ちがすごく大きかったですね。捕手で言えば銀さんには頼りっぱなしのイメージ。それだけ信頼していました」
PROFILE 増田達至/ますだ・たつし●1988年4月23日生まれ。兵庫県出身。180cm88kg。右投右打。柳学園高-福井工大-NTT西日本-西武13[1]〜24引=12年。