週刊ベースボールONLINE

惜別球人2024

岡田雅利(元西武) 引退惜別インタビュー 天性の明るさを持った扇の要「僕自身は顔面に当ててくれ、という気持ちで打席に立っていました」

 

11年間の現役生活で主戦捕手として活躍したわけではない。控え捕手の立場がほとんどだったが、ライオンズに欠かせない存在であったのは間違いない天性の明るさを持つ扇の要。さまざまな面でチームを明るく照らし続けた。
取材・構成=小林光男 写真=BBM


炭谷のFA移籍で出てきた自覚


 昨年3月14日、『大腿骨・脛骨骨切り術』の大手術を受けた。プロ野球人生で3度目となる左膝へのメス。険しいリハビリを経て復活を目指してきたが、誕生日である今年6月30日までに一軍復帰はかなわず。「もう限界かな」。自らが生まれた日に、現役引退の決断を下した。

――ユニフォームを脱いだ寂しさはありますか。

岡田 めちゃくちゃありますね。この前も道でファンに声を掛けられたんですけど、「元西武ライオンズの岡田さんですよね」と言われて。うわー、“元”なんやな、と。本当に野球選手をやめたんやなという実感になりましたね。

――ただ、家族と接する時間は増えたのではないですか。

岡田 そうですね。ここまで一緒にいられることは少なかったですし、ようやく“お父さん”ができているのかなという感じです。小学5年生の息子は野球をやっているんですよ。現役中はあまり言うことを聞いてくれなかったんですけど(苦笑)、引退試合を見たら尊敬してくれて。今はサードをやっています。動き的にはしっかり野球を見ているなという部分がありますよ(笑)。

――捕手はやらせないんですか。

岡田 小さいころは「やりたい」と言っていたんですけど。ただ、体もそんなに大きくないので「いろいろなポジションをやったほうがいいよ」と。今は楽しんで野球をやっているので。もし、「捕手をやりたい」ということになったら、いくらでも協力します。

――プロ入り当初、11年も現役生活を続けられると思っていましたか。

岡田 そんなことはないですよ。プロ入り前から家族がいましたが、「3年続けばいいよね」と言っていましたから。やっぱり、長くユニフォームを着られたのは周りの方々のおかげです。あとは飛び抜けた能力はなかったですけど、1個1個、しっかりやっていればここまでできるということは分かりました。

――ドラフト同期の1位が森友哉選手(現オリックス)、2位が山川穂高選手(現ソフトバンク)でした。

岡田 すでにプロでプレーしている選手たちもすごかったですけど、この2人も強烈で。だから、余計にプロではきついかなと思った部分です。あと、1年目のキャンプでどえらく緊張した覚えがあります。例えば投内連係の練習でも、「ミスしたら外れろ!」というピりつきが半端なくて。ホンマにこんな世界で続けられるのかなと思いましたね。

――不安が取り除かれていったのはいつごろでしたか。

岡田 3年目くらいからプロ野球に少しずつ慣れてきた感じがありました。試合途中からでも出番が増え、チームが自分を必要としてくれているんだなと思えて。あとは2018年限りで銀さん(炭谷銀仁朗、現西武)がFAで巨人に移籍して、自覚を持たないとダメだなと感じました。弱いチームではなく勝てるチームにしたかったですし、そのためには自分がしっかりしないといけない、と。

――大阪桐蔭高の後輩捕手であり、レギュラーを争う相手でもあった森選手はどのような存在でしたか。

岡田 もちろんライバルだと思っていました。実力を考えれば森のほうが断然上ですけど。ただ、そこは森うんぬんより・・・

この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。

まずは体験!登録後7日間無料

登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。

惜別球人

惜別球人

惜しまれながらユニフォームを脱いだ選手へのインタビュー。入団から引退までの軌跡をたどる。

関連情報

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング