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惜別球人2024

T-岡田(元オリックス) 引退惜別インタビュー 期待を背に戦い続けて「打席どうこうより、この声援を覚えておきたいって」

 

スタンドが“浪速の轟砲”のアーチを待ち続けたのは、誰よりチームを思う気持ちがファンに伝わっていたから。本塁打王に輝いた2010年、優勝に一歩届かなかった14年──。そして15年以降の低迷期の中でも、常に前を向き続けてきた原動力は“ファンの大声援”にほかならない。
取材・構成=鶴田成秀 写真=早浪章弘、BBM

オリックス・T-岡田


労働基準法違反とノーステップ打法


 プロで戦う礎は、若いころに培った“振る体力”。朝から晩までバットを振り、『労働基準法違反』と表現し、ノーステップ打法が生まれた2010年は、忘れじの日々だ。

──引退から1カ月以上が経ちましたが、実感する瞬間はありましたか。

T 日々、練習していないときですよね。こんなにバットを振らないのも、ボールを投げないのも、野球を始めてからなかったこと。『あぁ、もう野球をやらへんねんな』と感じますよね。プロは19年ですけど、野球は小学校3年生からなので、25、26年も野球をやってきましたから。プレッシャーというか、責任感から解放された感じはありますけど。

──責任感ですか。

T はい。応援してくれる方に対しての。何とか期待に応えたい。その責任を感じていましたから。

──大歓声が物語った“責任”は、現役19年で培ってきたものですが、キャリアを振り返れば、登録名が『T-岡田』となった5年目の2010年が転機だった気がします。

T 確かにそうです。確かにそうなんですけど、それまでの土台があってこそ。1年目の僕は打撃コーチだった藤井康雄さんの考える打撃の形ができなくて。藤井さんも一度現場を離れ、4スタンス理論を勉強されて3年目の秋に(現場に)帰ってこられ、フェニックス・リーグと、秋季キャンプと付きっきりで指導してくださったんです。そこで劇的にバッティングが変わった実感があって、4年目にファームである程度の数字を残せた。それがあっての5年目。若いときに練習量をこなした『貯金』があったから、ここ何年かは、年齢を重ねても、ある程度練習量をこなせたというのもあるんです。

──2010年も、想像を絶する振り込み量でした。

T あの年は、めちゃくちゃ振り込みましたからね。今、考えると、よう振ったなと思いますよ(笑)。

──当時、『労働基準法違反』と言っていましたよね。

T ハハハ(笑)。間違いない。ホンマ、それくらい振っていましたから。キャンプの早出は当然のこと。全体練習の前の8時過ぎから1時間くらいマシンを相手に打って、チームの全体練習をこなして、終わるのが15時前後。そこから2時間くらい特打をして。それからウエート・トレーニングをして宿舎に帰るのが19時くらいでしょ。そこから急いで食事して、19時30分くらいに、また宿舎を出て、夜間練習でバットを振って、戻ってくるのは21時30分くらい。それが毎日でしたから(笑)。それでも、開幕してから打てなかったですけど、(当時の監督)岡田(岡田彰布)さんが我慢して使ってくれたんです。

──シーズン中にはノーステップ打法に変更しましたが、きっかけは。

T あれは5月くらいやったかな。札幌ドームだったと思うんですけど。当時の打率が2割あるかないか。それでも試合に出してもらって、ビジターの試合でも当然、早出があって。その早出に、珍しく岡田さんが来られて言われたんですよ。「ノーステップで打ってみい!」と。こんな感じかな!? と戸惑いながら打っていて。それが始まりです。低めのボール球をよく振っていたし、タイミングの取り方がうまくなかった。だから、体のブレをなくしつつ、しっかりタイミングを取りやすくする狙いがあったんやと思うんです。ノーステップにすることで、いつでも打てる準備をする。そういう意味があって、言われたんだと思います。

──当初は練習の一環だった?

T 僕も練習だけやと思っていたんです。でも、違って(苦笑)。正直、ノーステップにしたら飛距離が出ない、もうホームランは打てないかな、と思ったんですよ。でも、練習量をこなしていくうちに・・・

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惜しまれながらユニフォームを脱いだ選手へのインタビュー。入団から引退までの軌跡をたどる。

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