マウンドで舞い踊るようなサイドハンドから140キロ台後半の直球と90キロ台のスローカーブを操り緩急自在の投球で華麗に打者を斬る。幾度もチームの窮地を救った中継ぎ右腕。15年間の現役生活を支えたものは意外なものだった。 取材・構成=鶴田成秀 写真=BBM 生き様を映す心意気 意識してきた戦力外
熟練の投球は幾度もチームのピンチを救ってきた。40歳を超えてもなお、ブルペンを支え続けたが、意識してきたのは引退ではなく戦力外の三文字だと言う。それこそが身を粉にして腕を振った男の生き様だ。 ──引退を迎えた年末年始は、現役時代よりも心身ともに、ゆっくり過ごせたのではないですか。
比嘉 練習をしないので不思議な感じでしたよね。ただ、今年から(一軍投手)コーチになるので。今年も不安を感じて年が始まったんです(苦笑)。現役のときは体の不安。年齢も年齢だったので「しっかりキャンプに合わせて体が仕上がっていくかな」「痛いところが出ないかな」って。でも今年は、心の不安が大きくて。コーチとして勉強しないといけないことも多いですし、やらないといけないことも莫大にある。大丈夫かな……と思っていたので、引退したからと言って年末年始もゆっくり過ごせたわけでもなかったですね(笑)。昨年までは体を使い、今年は頭を使って、という感じでした。
──年末年始も引退を実感することはなかったのですね。
比嘉 いや、実感することもありましたよ。いつも沖縄で自主トレをやっていて、手伝ってくれる仲間がいるんです。今年は自主トレをしなかったですけど、沖縄で集まってお酒を飲んだんですよ。「こんな感じで飲むの初めてじゃない?」という話になりましたし。
──寂しさも覚えたものですか。
比嘉 寂しさはないですよ。もちろん、悔いが残っていることもありますけど、やり切ったという感覚に近くて、スッキリしているんです。
──未練なき現役15年間を感じさせますが、「苦手な性分」と話し、会見を辞退しての引退発表でした。あらためて、決断の時期と理由を。
比嘉 理由は4月に(左膝を)ケガをして、どうにか7月にファームで投げられるようになって、7、8、9月はチームのために頑張ろうとやっていたんです。ファームでも抑えることはできて。でも、毎日投げることができなかった。投げる日は大丈夫なんですけど、翌日に(膝に)水が溜まったり、腫れたりして。1週間くらい日を空けて投げることしかできなくて。投げられたら抑えられるんですけど、やっぱり次の日に膝がダメで。僕は先発ピッチャーではなくてブルペンの人間なので、毎日投げられないのは、もうしんどいなって。8月くらいにはもう……ね。
──翌年に完治を目指す考えには。
比嘉 いや、4月にケガした時点で、手術を勧められたんです。でも、それを避けて保存治療で復帰を目指した。でも、保存治療で無理なら手術しかないわけじゃないですか。冷静に考えてみたんですよ。43歳の手術明けのピッチャーをチームは必要とするのだろうか、と。手術が成功しても、万全で投げられるかも分からない。そういうことを考えて、家族と相談して引退を決めたんです。
──40歳を超えてもブルペンを支え続けた比嘉さんですが「引退」の二文字は意識していたのでしょうか。
比嘉 正直、「引退」という文字は、まったく頭になかったです。というよりも、引退ではなく「戦力外」で終わると思っていましたし、チームから「いらない」と言われたときがやめるときだと思っていたんです。35歳を過ぎてから毎年、ずっとそう思っていて。今年ダメだったら(戦力外と)言われるだろうなって思って投げてきたんです。昨年、球団とも相談をして決めたことでもあったのですが、まさか「引退」という形で自分からやめる決断を下せるなんて思ってもいなかったんですよ。
──連投も辞さず、ピンチの火を消し続けてきた生き様を映し出すような考えですね。
比嘉 いやいや(笑)。だって、僕はキレイにやめるようなピッチャーじゃない。だから・・・
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