今オフにFA権取得や自由契約などで、所属球団を離脱、あるいは残留を決意した選手たちの揺れ動きを紹介する不定期連載の第2回。前回はFA宣言せずにロッテ残留を選んだ今江敏晃の決断を取り上げたが、今回は反対にロッテから自ら自由契約となった渡辺俊介の、決断に至るまでの過程をたどる。 文=中田康博(デイリースポーツ) 写真=BBM 自ら選んだ自由契約 37歳でのメジャー挑戦─。その決断を勇気と呼ぶ人も、無謀と評する人もいるかもしれない。渡辺俊介が選択したのは、間違いなくいばらの道。ただ突き動かしたものは、プロとしての自然な思いだった。
11月4日、QVCマリン内での記者会見。その主役である渡辺は、メジャー挑戦を希望しロッテへ自由契約を申し入れたこと、そして、それが受け入れられたことを発表した。
「37歳という年齢もあり、厳しい戦いになると思いますが、腹をくくって挑戦します」。さわやかな表情。ただ、その中に強い意思を込めた真っすぐなまなざしで、新たに挑む舞台を見据えていた。
「今までも新しい場所へ踏み出すときは、周囲の期待感はほとんどなかった。高校や大学に進むときも、プロ入りのときも。こういうメジャー挑戦も、自分らしくていい」
振り返れば渡辺の野球人生は、挑戦と探求の繰り返しだ。父の勧めで中学時代に始めたアンダースロー。目的はプロではない。「高校、大学まで野球を続けられるかもしれない」。国学院栃木高では2番手投手。
だが、ひたむきに磨き続けた技の粋は、国学院大、社会人の新日鐵君津(現新日鐵住金かずさマジック)を経て、大きな舞台を引き寄せ始めた。
00年には日本代表としてシドニー五輪に出場。そして同年秋のドラフトでロッテから4位指名を受けてプロの世界へたどり着く。以降の活躍は、ここで多くを語る必要のないほど、ファンの記憶に刻まれているだろう。05年は15勝4敗、防御率2.17の好成績で、チームは31年ぶりの日本一。10年にも2度目の日本一に貢献。「ミスターサブマリン」は、ファンから絶大な人気を得る存在となっていった。

▲05年に自己最多の15勝。日本シリーズでも完封勝利を収め、31年ぶりの日本一の原動力となった

▲WBCでは06、09年の連覇に貢献。世界の舞台へのあこがれが芽生え始めた
メジャーを意識したのは野球日本代表「侍ジャパン」の一員として、06、09年と2大会連続世界一を果たしたWBC。「球場の雰囲気や、日本とは違う声援の仕方などに興味を持つようになった」。ただ、それは夢舞台へのあこがれに似た感情。日々の戦いで、その思いは消されていった。今季を迎えるまでは……。
「まだ選手でやりたい」 背水の13年。09年以降は2ケタ勝利から遠ざかり、前年は4勝止まり。プロ人生を懸けた1年も、苦難が続く・・・
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