首位打者1回、阪神の生え抜き選手として唯一の2000安打以上も放っている藤田平。華麗な打撃に目を奪われがちだが、守備もダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデン・グラブ賞)を3度獲得する(遊撃2度、一塁1度)など定評があった。その藤田が高卒ルーキーのときに、野球人として生きるべき道を示された試合があった。 取材・構成=椎屋博幸、写真=BBM 仕方ない、はないプロの世界
吉田義男の後釜として英才教育を受け、高卒ルーキーながら一軍帯同を続けた。2年目からは遊撃のレギュラーに定着し、リーグ最多安打を放つなど活躍を見せた。このときには、守備の面でも1球も息を抜くことはなかった。なぜなら、1年目に1つの守備で試合の流れが一気に変化する体験をしたからだった。 1979年4月に肉離れを起こして、その後、アメリカへリハビリに行って野球観が変わった中で復帰を果たしたんですわ。それまでは、野球を職業と見ていました。もちろん、職業でもあるんですが楽しむということも必要だ、ということが分かった。その中で2000安打を打つことができた。
これは何物にも代えがたい経験でしたし、至福の時間やったと思いますわ。また、首位打者を獲ったときもうれしかった。逆に前述した肉離れを起こしたことは、すごく悲しい思い出でもあった。でもこのテーマでいうところの「思い出のゲーム」とは少し意味合いが違うような気がしますわ。僕の中で、野球人生を大きく左右した、切っても切れないプレーというものがある。それを今回はお話します。
あとから聞いた話やけど、僕が入団したときは、名遊撃手・吉田さんは大ベテランで、もう後継者を作るべきという考えがあり、獲ってきてほしいと。それで僕がドラフト指名されたと聞いています。当時、僕より少し年上の安藤(
安藤統男)さんに対し吉田さんは何も教えなかったと安藤さん本人から聞きました。しかし、僕の場合は、後釜ということで、キャンプからいろいろなことを教えてもらいましたし、家に呼ばれて一緒に食事もたくさんしていました。そういう中で高卒1年目ながら一軍に帯同することができた。
その当時は、吉田さんを超えないと自分の居場所がないと思って臨んでいましたから、一軍でプレーするプレッシャーのようなものはなかったね。しかも守備で吉田さんを抜かないといけないな、と思っていましたからね。この時代は遠征先でもよく親子ゲームが行われていたから、僕も1年目でよう二軍の試合に出た後、一軍の試合に出てたから、毎日が必死でしたわ。
そのルーキーの年で忘れられない試合があるんです。苦い思い出ですが、私にとってはプロで生きていくための分岐点のような試合になった。
1966年4月29日、
中日球場(のちナゴヤ球場)での中日戦・・・
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