栄光も挫折も知っている。だからこそ、冷静を保ちながらも心は熱い――。高3夏に全国制覇、プロでは先発ローテの一角として2ケタ勝利をマーク。だが、11 年に右ヒジを手術すると、4年連続でメスを入れ、14年オフに育成へ。それでも昨季、再び2ケタ番号を勝ち取った。現役最後の“近鉄戦士”は、静かに再復活のときを待っている。 文=喜瀬雅則(産経新聞)、写真=小山真司、佐藤真一 ※7月17日、八木亮祐との交換トレードでヤクルトへの移籍が決定した。 自覚と誇りを胸に背負う“永久欠番”
2004年9月27日。
球界再編という未曾有の大騒動の中で、近鉄バファローズが、その歴史に幕を閉じようとしていた。翌年からの
オリックス・ブルーウェーブとの合併が決まっていた中で、球団通算7千252試合目のラストゲームの相手は、オリックスだった。
翌年からチームメートになるかもしれない選手たちと、これから戦うという皮肉なプレーボールを直前に控えた最後のミーティング。監督の
梨田昌孝(現東北
楽天監督)が涙ながらに発した“ラスト・メッセージ”に、猛牛戦士たちは試合前にもかかわらず、男泣きに泣いた。
「今、お前たちが着けている背番号は永久欠番だ」
その光景を当時21歳、プロ3年目だった
近藤一樹は、鮮明に覚えているという。球団が消える。自分たちの“故郷”がなくなる。その事実の重さは、近藤一も当然分かっていた。しかし、近鉄の看板を背負ってきた主力たちと、駆け出しの若手投手とでは、当然ながら温度差がある。近藤一は泣けなかったという。
「それ、やっぱり、若さだったんでしょうね。今だから言えるんでしょうけど、どこかできっと野球はできる。そう思っていましたし……。若さで、その重みを感じていないといえば、それまでなんでしょうけど」 あれから12年の時が過ぎた。
球史の分岐点に立ち会っていた青年は、この世界では「ベテラン」と称される33歳になった。そして今季、新たな、そして少し長めの“注釈”がつくようになった。
「近鉄でドラフト指名された選手で、合併球団のオリックスでプレーしている唯一の選手」
図らずも背負うことになった“歴史の看板”。今の近藤一には、その重みを、しっかりと理解できる。
「近鉄のファンの方にとって、近鉄に属していた選手って、気になるところだと思うんですよね。今だから、分かります。球団がなくなったことというのは、ホントに大きな出来事だったんだな……と」 最後の猛牛戦士──。その自覚と誇りを胸に、プロ15年目の今、近藤一は“近鉄の永久欠番”の「65」をつけ、オリックスの一員として、マウンドに立ち続けている。
昨季途中に再び支配下登録され、背番号は近鉄入団時の「65」に。近鉄戦士の誇りと自覚を胸に、プロ15年目の今季も腕を振り続ける
2001年夏、全国制覇を果たした日大三高の、最後のマウンドに立っていたのは近藤一だった。当時182センチ、70キロの体は、この世界では「線が細い」と呼ばれるサイズ。「夏の胴上げ投手」への各球団の評価は、大きく割れていた・・・
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