チームの窮地を救うため、仕方なく始めた捕手。すぐにやめるつもりだったが、思わぬ評価を得て、野球人生のレールも知らないうちに延びていった。数々の運命的な転機を飛躍の土台に変え、日本ハムでは欠かせない一軍戦力に定着。縁の下の力持ちとして、今日もチームを献身的に支え続けている。 文=井上陽介(スポーツライター)、写真=高原由佳、BBM 3月31日の
西武との開幕戦[札幌ドーム]。
市川友也がプロ初の「八番・捕手」で開幕の先発オーダーに名を連ねた。8年目の31歳。試合前練習のウオーミングアップが終わり、ロッカーへ戻ると栄えあるスタメンが張り出されていた。
「準備はしていたので」。心は高ぶったが、心地良い緊張感の中で試合開始までの時間を過ごした。
積み重ねてきた、さまざまな経験がある。開幕のバッテリーを組んだのは
有原航平。これまで何度もバッテリーを組んできた仲だけに不安はなかったが、西武打線につかまって結果は5回2/3、6失点。市川自身は5回に今シーズンのチーム第1号となるソロ本塁打を放つも1対8で大敗。最後まで必死に勝利を目指したが及ばず。9回は若手捕手の
清水優心と交代した。
「チームを勝たせられなくて残念です」と淡々と、捕手として投手の良さを引き出せなかった悔しさを押し殺しながら2017年シーズンは幕を開けた。

初の開幕スタメンとなった3月31日の西武戦[西武ドーム]。5回には左翼席に今シーズンのチーム第1号アーチを放つ活躍を見せた
やめたかった大嫌いなポジション
こんな野球人生になるとは想像していなかった。
「とりあえず中学校のときはひたすら『いつになったら捕手をやめさせてくれるんだろう』。いつもそんなことばかり考えていました(苦笑)」 神奈川県の相模原市出身。小学1年のときに軟式の南橋本ドリームズに入団。地肩が強かった。最初は投手をメーンに遊撃手などの内野手としてもプレーしていた。捕手とは無縁。
「いい選手はキャッチャーをやりたがらないと思うんですよ。ピッチャーとかね。やっぱりカッコいいいじゃないですか、外野とかショートのほうが」 見た目も大変そうな扇の要に興味を持ったこともなかった。中学では硬式の相模原南シニアに入団。投手として
「130キロくらいは投げていた。新垣より僕のほうが上でしたよ」。いまでは同僚の
新垣勇人とチームメートで同じ投手として切磋琢磨していたが、突然転機が訪れた。
中学2年のとある日。チームの指導者から「ちょっとの期間でいいから捕手をやってくれないか」と言われた。思いがけない捕手転向の話に最初は即答で断った。
「普通にピッチャーとかショートを守れたわけですよ。セカンドとか」。投手や内野手として、プロを目指そうと思っていた。花形のポジションでやっていこうと自信も芽生え始めた矢先に考えられない選択肢を示され、迷うこともなく拒絶した。ただ、チーム事情も切迫していた。
「厳しいチームだったんです。それで捕手のヤツがやめちゃって。誰もやる人がいなくなってしまったんです」。捕手がいなければ、試合はできない。客観的にチーム内を見渡してもほかに適任者もいなかった。泣く泣く決断した。
「ちょっとだけのつもりで。最後の最後までやりたくなかった」。不満いっぱいの中ですぐにでも元の投手や内野手に戻るつもりの“腰掛け捕手”としての日々が始まった。
試合での立ち居振る舞いもそれほど戸惑うことはなかった。
「そんなに違和感はなかった。中学校レベルなので」 自虐的に振り返るが、目を見張る強肩は周囲から注目を集め、地元の強豪校であった東海大相模高から声が掛かった。腰掛けのつもりが
「高校もキャッチャーでスカウトされてしまって。もうやめられない、みたいな(苦笑)」 東海大相模高では3年夏の県4強が最高成績。系列の東海大に進学すると、3年時からレギュラー捕手となった。4年時は首都大学リーグで春秋連続でベストナインを受賞。順調に捕手として成長を続けたが、それでも本心は「捕手は嫌」。にも関わらず大学卒業後も社会人野球でマスクをかぶり続けた。強豪の鷺宮製作所に進み、あこがれのプロ入りを目指した。社会人2年目の秋に
巨人からドラフト4位で指名を受けた。嫌々ながら続けてきた捕手として、夢であったプロ野球選手となった。
大きな転機となった日本ハムへのトレード
巨人では即戦力として期待されたが、分厚い壁が目の前に立ちはだかった。チームには脂の乗り切った
阿部慎之助がどっしりとレギュラーに座っていた。さらに同年のドラフトでは市川を含めて3人の捕手が入団。阿部の後継者、2番手捕手の育成がチームの喫緊の課題でもあった。
社会人出身のルーキーとして開幕一軍入りは果たしたが、一軍定着とはならなかった。プロ1年目の2010年は3試合出場にとどまり、2年目は一軍出場なし。いつしか二軍のジャイアンツ球場が主戦場となった。なかなかチャンスが訪れない中で、当時の巨人二軍バッテリーコーチだった
野村克則氏の言葉を胸に刻んでいた。「ここでは報われていないかもしれないけど、今やっていることは・・・
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