苦難を乗り越えてきた男は強い。左のエースとして期待されるも、ヒジを手術して育成契約、支配下再登録後は中継ぎ転向。そんな苦境をはねのけ、見つけた生きる道──。連日の奮闘は、まさに背番号57の生き様だ。 文=真柴健(日刊スポーツ) 写真=毛受亮介、BBM 
一球の重みが増す救援登板だからこそ、自然と集中力も高まる
2度の決断と2つの傷
傷だらけになっても、タフネス左腕は健気(けなげ)にマウンドに向かう。
山田修義の左ヒジには10cmの“勲章”がある。
2014年4月、トミー・ジョン手術を受けた。
「手術が決まったときから前しか見てこなかったんです。焦らず、しっかり治すことだけを考えていました」 病室で見上げる天井には、マウンドで躍動する背番号57を何度も夢見た。高卒5年目、22歳での決断。1度は支配下選手登録を外れてリハビリに専念し、育成契約となって背番号は3ケタの『121』になったが、地道なリハビリばかりで、3ケタ番号のユニフォームを着ることはほとんどなかった。

敦賀気比高時代は同校OBの『内海哲也二世』と呼ばれた
福井・敦賀気比高から2010年ドラフト3位で入団した期待の星だった。新人年は、ウエスタン・リーグ公式戦13試合に登板。3勝3敗、防御率3.33の成績を残し、9月5日の
ソフトバンク戦(スカイマーク)で、プロ初登板初先発として一軍デビュー。18歳左腕は、胸を高鳴らせて臨んだマウンドだったが、3回1失点の投球内容で降板した。勝ち負けはつかなかったが、チームの高卒新人投手による一軍公式戦の先発登板は、94年の
平井正史以来と、球団史に名を刻んだ。その後は二軍で奮闘も、左ヒジに違和感を覚えて手術を決断したのだった。
メスを入れてから1年3カ月後の15年7月27日。患部が順調に回復し、再び背番号57を手にした。16年7月27日の
ロッテ戦(ほっと神戸)では、先発で7回途中1失点。ようやくプロ初白星に手にするなど、術後のプロ野球人生は、順風満帆そうにも見えた。ただ、今度は技術面の課題に直面する。
「先発をしていたときは立ち上がりが課題で……。めちゃくちゃ悪くて。先発をダメになったんです」 プロ入り後に下した、2度目の大きな決断。それは18年途中の救援への転向だ。以降、ブルペンで待機する日々が始まった。
「中継ぎになってから(左の)ワンポイントもある。一瞬のために準備をするんです。先発のときはゲームを作ることばかりを考えていたけど、今は目の前のバッターに集中するだけ」 温和な目つきもマウンドでは豹変する。
「なんか分からないですけど、先発のころの1球目と、今の1球目は全然違うんですよね。たぶん、集中力の違いだと思うんですけど」。
18年8月。覚醒した姿を披露する。救援左腕として首脳陣の期待を背負い・・・
この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。
まずは体験!登録後7日間無料
登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。
登録済みの方はこちらからログイン