昨年は右ヒジのトミー・ジョン手術を受けて、プロ9年目にして初めて一軍マウンドに立てなかった。しかしすぐに復活を果たし、今季は通算400試合登板を達成。経験豊富な中継ぎ右腕の“第2章”がスタートした。 文=川本光憲(中日スポーツ) 写真=BBM 一生の思い出
田島慎二のプロ野球生活は、今季で10年目の節目だった。名古屋市出身で中部大第一高、東海学園大を経てドラフト3位指名されたのは2011年秋。直後に、コンビニ
エンスストアで缶ビールを手にしようとしたとき、居合わせた中日ファンから「田島さんですよね?」と話し掛けられて思わず手を引っ込めた。
「何か、買っちゃいけない気がして」とウーロン茶に切り替えた微笑ましいエピソードを持つ31歳。マウンドで光を放ち、苦しみ、今季は通算400試合登板も果たした。

2011年秋のドラフト3位指名で中日入団[後列左端]。東海学園大からは初のプロ選手誕生となった。前列左端は1位の高橋周平
インパクト大のルーキーイヤーだった。春季沖縄キャンプは二軍・読谷組でスタート。一軍参加のワンチャンスをものにした。12年2月19日の紅白戦(北谷)。1イニングを3人斬りの2奪三振。スプリットに手応えを感じ、当時の
権藤博投手コーチから「オッと思わせてくれた。制球もいいし、実戦向きだよ。使いたくなるピッチャーだよ」と高評価を得た。
投手挑戦は高2秋だった。先輩で07年から5年間、
西武に所属した
朱大衛(しゅ・だいえい)がチームを抜けた。
「肩が強かったから投手になったんだと思います」。捕手のマスクを脱いで、マウンドに上がった。
プロで生き抜くスプリットを手にしたのは大学時代。フォークを投げてみるとスライダーのように曲がり、落ちない。悩んでいたとき、三菱重工名古屋との合同練習があった。佐伯功コーチ(現・三菱重工East監督)からボールの握りを教わった。人さし指は縫い目に、中指は縫い目の少し右側に置いた。面白いように落ちた。決め球を会得した。
ルーキーイヤーは56試合登板で防御率1.15。新人王こそ
広島・
野村祐輔に譲ったものの、立派な成績。オールスターに同じ中日から
谷繁元信、
荒木雅博、
和田一浩、
大島洋平と出場したのが懐かしい。
「テレビで見た選手と一緒にプレーしました。完全にフワフワしました」 イチローとのエピソードは年末。「一生忘れられない出来事」が待っていた。少年野球・イチロー杯へ招待された。小学生時代に、同大会に出場してMVPに輝いた。その縁で、閉会式に呼ばれた。イチローから直接、伝えられた。
「僕の大きな夢をかなえてくれた」
大会を主催するイチローは、プロ野球選手を輩出したかった。田島が第1号だった。
「イチローさんにお会いして、緊張して目も合わせられなかったです。足が震えました」 時間がたつと興奮度は増した。
「イチローさんで夢を見た人は多いと思います。ですが、イチローさんの夢をかなえた人って何人いますかね? 僕がその一人だと思うと……。何とも表現できないうれしさがあります」 何ともむずがゆい感情に浸った。
2年目からは好不調があった。5年目の16年には日本記録となる開幕からの登板連続無失点試合、31試合をマーク。4年ぶり2度目のオールスター出場を果たした。抑えを任された17年のセーブ数は・・・
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