器用に見えて不器用、コツコツとやるタイプに見えて、実は究極の面倒くさがり屋なのだという。いつも進路は他人任せだったが、芯は強く、気持ちはブレない。そうでなければプロの世界で20年も生き抜けるはずがない。 文=土屋善文(中日スポーツ) 写真=松村真行、桜井ひとし、兼村竜介 他律的な人生
「声出していこう!」
「元気出していこう!」
小学生から大人の草野球まで、週末の日本中のグラウンドでもっとも聞かれるフレーズだろう。間違いなく、涌井秀章は言われ続けてきた側だ。横浜高2年の秋のこと。1学年上の先輩・
成瀬善久の記事が載っている雑誌を開いた。そこには自分へのメッセージが記されていた。「もっとマウンドで感情を出したほうが良い」。17歳にして今のスタイルのベースは出来上がっていた。打たれても、抑えても一切表情が顔に出ない。相手にとってはもちろん、味方にとっても何を考えているのか悟らせない。もちろん自覚はあった。
「仕方ないですよね。これは性格だから。どうしようもない」 冷静、無表情、鉄仮面……。涌井がマウンドに上がっているときによく形容されるワードだ。
「小さいときからよく何を考えているか分からないと言われていましたね。自分でも、そりゃそうだよなと思ってましたよ。外に出たらほとんどしゃべらなかったから。しゃべるべきことが別にないというか……」 性格については、無関心で究極の面倒くさがり屋というのが自己分析。誰に何を言われようと、自らを“改造”しようと思うわけでもなく、かといって、自分を貫いたというほどの熱量があるわけでもない。大人になっていくということは、「こうなりたい」「ああなりたい」に自らを寄せていくことだけではない。変わらなくていいことを知ること、また、そうなってしまったことを引き受けることも、そのひとつということだ。
「進路って、一度も自分で決めていないかも」 小学1年のときに生まれ育った千葉県松戸市でソフトボールを始めた。小学6年になると、すっかり地元のソフトボールチームで名の知れた存在となっていた。意外にも中学進学後は部活の軟式野球をやりたかったのだという。11月のことだった。
「寝てたらシニアでやることが決まっていた」。昼寝している間に、松戸シニアの監督から勧誘を受けた両親が二つ返事で答えたのだった。
「もう大泣き。中学の野球部ならみんな仲がいい人たちとそのままできる。まったく知らない人と野球するなんて無理って感じだった」 それがプロ入りしてドラゴンズで4球団目というから人生は何が起こるか分からない。ただ、そのときは・・・
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