負けても負けても投げ続けたエースは、三原監督の“教育”で真のエースに! それにしてもいい人だった。 文=大内隆雄、写真=BBM 
62年ごろ。ピッチングのカラー写真でないのが残念だが、この細い体で57年には406回も投げている!
先々週号でライオンズのエースだった
東尾修が若き日に、3年で59敗もしたことを書いた。書いたあと、東尾どころではない“負け男”を思い出した。その名は
秋山登。60年、大洋ホールズ(現
DeNA)を初の日本一に導いたサブマリンの大エースだ。
秋山は1956年に明大から大洋入り。ルーキー年に、25勝25敗という、何とも表現のしようがない成績で新人王となった。防御率は2.39。まあ、3点取ったら勝ち、3点取られたら負け、というマウンドだったのだろう。当時の大洋打線は130試合でわずか319得点。もちろんセ・リーグ最少。1試合平均2.45得点。3点ないのだから、秋山は15勝35敗ぐらいでもおかしくないのだが、これを五分に持っていったのだから、考えてみればすごいことである(大洋はこの年43勝87敗。負けが勝ちの倍以上! 秋山がいなかったらどうなっていただろう)。
大洋打線が突然強打に変身するハズもなく、秋山は翌57年からも27、23、22と負け続けた。60年、ようやく10敗でストップさせたが、この年優勝、日本一に輝いた。
こう書いてきて、稀代の? 負け男は、同時に相当な“勝ち男”であることも分かった。1年目の25勝から24、17、14と来て60年に21勝。4年連続20敗以上の数字にばかり目が行ってしまうが、5シーズンで101勝は、平均20勝!
いまこんな数字の投手がいたらメジャーが放っておかない、というより“強奪”しにかかるだろう。“エース残酷物語”と言えば、
稲尾和久(西鉄)、
杉浦忠(南海)、
権藤博(
中日)の3投手の名がすぐに浮かぶのだが、浪曲ではないが「だれか1人、忘れちゃいませんか?」なのである。
98年、横浜ベイスターズ(現DeNA)の2度目のVが近づいたころ・・・
この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。
まずは体験!登録後7日間無料
登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。
登録済みの方はこちらからログイン