
ゲームセットの瞬間、絶叫する近藤。手前の打者が篠塚
4月7日、マツダ
広島での広島─
ヤクルト戦。咽頭炎で登録抹消となったジョンソンの“代役”として広島の先発マウンドに立ったのが、慶大からドラフト1位で入団した新人右腕の加藤拓也だった。
加藤は荒れ球気味のフォークを武器にオープン戦で好投を見せたが、制球難による球数の多さが不安視され、開幕先発ローテーション候補からは外れていた。
しかし、この日は、この“制球難”がプラスになる。7四球は出したが、逆にヤクルトの打者が的を絞れず、9回一死までノーヒットノーラン。無安打に抑え込まれた三番打者の
山田哲人は「バッターにしては最悪の球だった……」と振り返った。
結局、一死一塁から
バレンティンに三遊間を抜かれるヒットを許し、さらに一死一、三塁とされて
雄平にタイムリーを許した後、降板。初完封、初完投も逃してしまった。それでも抑えの
中崎翔太が試合を締め、セの新人では一番乗りの勝利投手になっている。
8回以上を無安打で抑えた新人は、1987年8月9日の
巨人戦(ナゴヤ)で初登板ノーヒットノーランを達成した
近藤真一(現近藤真市)以来。
近藤は愛知・享栄高時代、甲子園を沸かせた快速球左腕。5球団が1位指名で競合し、意中の球団だった
中日の監督に就任したばかりの39歳、
星野仙一監督が交渉権を引き当て、入団となった。しかし体重増もあって開幕は二軍スタート。一軍には8月7日に初昇格していた。
巨人3連戦の3戦目の初登板先発を告げられたのは、試合前練習が終わった後。消化試合ではない。この時点で首位は巨人。それを広島、中日が追い、むしろ「絶対に負けられない試合」だった。
マウンドで足は震えるほど緊張していた近藤だが、キレのいいストレートと数種類のカーブが冴え、巨人打線を抑え込む。最後の打者は
篠塚利夫(現篠塚和典)。際どいカーブを見逃しての三振だった。篠塚が審判に抗議したが、ナゴヤ球場のファンはそれを無視し、18歳11カ月の快挙に拍手と歓声を贈った。ゲームセットの瞬間の視聴率は44%だったという。
写真=BBM