
高々と足を上げる独特のフォーム。見せたのは時々だったという
世界のホームラン王、
ヤンキースのベーブ・ルースを中心とし、最強とうたわれ、圧倒的な力で勝利を重ねていた全米選抜チームを相手に、敗れはしたが、日本代表の17歳、京都商中退の投手が1失点完投の力投を見せたとき、日本の野球歴史に、ひとつの輝ける伝説が生まれた。
1934年(昭和9年)、もう83年も前の話だ。その少年は花火のように、ほんの短い間、輝き、そして消えた。まるで日本プロ野球の誕生の祝い、野球の神様がくれたプレゼントのように……。
日本代表、そして
巨人軍の伝説的大エース、
沢村栄治──彼を史上最高の投手と信じ、そのストレートを史上最速と称える人はいまなお多い。
沢村は、1917年2月1日、三重県宇治山田市(現伊勢市)に青果業「小田屋」を営む沢村賢二、みち江夫妻の長男として生まれ、44年12月2日、3度目の応召の際、乗船していた輸送船が米軍の潜水艦により撃沈し、27歳の若さで戦死した。
今年は、その沢村の生誕100年でもある。3月22日の巨人─
日本ハムのオープン戦は「沢村栄治生誕100年記念試合」として行われ、
高橋由伸監督を含め巨人の全員が永久欠番となっている沢村の背番号14を着け、試合に挑んだ。
47年には故人の栄誉をたたえ、「沢村栄治賞」が誕生。その名を知らぬ人はいないと思う。ただ、時代の流れもある。すでにその雄姿を目撃した方はほとんど生存しておらず、若い野球ファンの方の多くは、その実像をほとんど知らないはずだ。
手短にはなってしまうが、今回から数回に分け、史上最高投手・沢村栄治の栄光と悲劇を追っていく──。
写真=BBM