
2001年、2年目の名鑑写真。まさかあんなに“元気ボーイ”だとは思わなかった……
「誰これ、かわいすぎないか」
いまから17年前、2000年春だった。編集部がザワめいたのを覚えている。
最近では
日本ハムの
谷口雄也が「日本一かわいい野球選手」と呼ばれるが、その男が「週刊ベースボール」7月3日号のインタビューに登場したときのインパクトにはとてもかなわない。
当時はCS放送も普及していないし、東京の編集部にいると、地方球団のファーム情報はなかなか入ってこなかった。毎週イースタン、ウエスタンの選手が交代でインタビューに登場するのだが、ほとんどの編集部員が、その男の名鑑写真以外、見たことがなく、球団担当以外、まったく気にもとめていなかった。
鹿児島工高から、この年、ドラフト4位で福岡ダイエーホークスに入団した
川崎宗則である。実際には、日に焼けて真っ黒だったはずだが、白黒ページだったこともあり、化粧しているかのように顏が白く、目鼻立ちがくっきりしていた。
あっ、この流れを勘違いしないでもらいたい。週べ編集部に“かわいい男の子”を好む人が多かったわけではない(いたことはいたのか? いや、いないはずだ)。
古くは
巨人・
定岡正二、
篠塚利夫(のち和典)、
広島・
高橋慶彦、そのころは巨人・
二岡智宏がそうだったが、ファニーフェースの選手が登場すると、週べが売れるというジンクスがあったのだ(要は若い女性ファンが増える)。
この時点で、ウエスタンでは打率.315となかなかのもの。編集部はみな「早く一軍に上がってくれ」と(けっこうマジで)祈ったものだ。
このときの記事を見ると、高校時代は振り子打法で「薩摩の
イチロー」の異名があったようだが、プロ入り後は用具係だった
田口竜二氏が「サツロー」と命名。そのほか「ヒヨコ」「タマちゃん」とも呼ばれていたらしい。
その後、川崎は03年に一気にブレーク。実力と人気を兼ね備えたスーパースターに成長し、週べ編集部でも、さまざまなエピソードがあるのだが、それはまた別の機会に。
ひとまずムネリン、お帰りなさい。またよろしくお願いします。
写真=BBM