
俊足堅守で鳴らした井上。54年の日本一メンバーで「シュート打ち名人」とも言われた
広島の四番に定着しつつある
鈴木誠也、同じく
ソフトバンクのライトに定着しつつある
上林誠知。近未来の球界を担うホープたちの背中に輝くのが背番号「51」だ。
現在マーリンズに所属する
イチローが
オリックス、マリナーズで着け続けた背番号であり、広島では
江藤智、
前田智徳ら、のち四番に座った選手が若手時代に着けた“出世番号”でもある。
ただ、この番号に最初にこだわったトップ選手がイチローだったわけではない。
1953年
中日(当時の球団名は名古屋)に入団した
井上登が元祖。井上は入団時にもらった「51」にこだわり、南海に移籍する前年の61年まで着け続け、南海から復帰した現役ラストイヤーの67年も着けた。ベストナイン5回、通算1322安打をマークした俊足のセカンドだが、レギュラーに定着し、もっとも若い背番号を勧められても断り続けたという。
その理由が“あこがれ”だ。地元愛知の岡崎高出身で、プロ入り前からドラゴンズファン、特に強打者・
西沢道夫の大ファンだった井上。西沢の背番号は、のち永久欠番となった「15」だから、つまり、その逆番号である「51」をもらったとき「ああ、縁起がいい」と思った。井上にとって最高の番号だったとも言えるだろう。
他球団でも東映(現・
日本ハム)の
大杉勝男が入団の65年から主軸を打つようになっても着け続け、73年日拓と球団名が変わったときに1年だけ「3」にしたが、日本ハムとなった翌74年すぐ「51」に戻している。ただし、その年限りで
ヤクルトに移籍、新天地では「8」を着けた。
近鉄でも61年に入団した
土井正博が同じく主軸を打つようになっても「51」を着け続けたが、こちらは68年に「3」が空くと、すぐ着け替え、移籍したライオンズでも引退まで続けている。
ちなみにオリックスの「51」というと若手時代の
福良淳一監督の番号でもあった。当時の「福良選手」のあだ名は「デゴイチ」。この理由が分からないという若い皆さんは、40代以上の人か鉄道マニアに聞いてみていただきたい。
写真=BBM