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敬遠球ではあるが、外し方が中途半端だったことは確か
プロ野球の歴史の中で、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は6月12日だ。
今季からメジャー・リーグで導入された敬遠の申告制。その際、盛んに言われたのが、「あのときの新庄みたいなドラマがなくなっちゃう」だった。
1999年6月12日、
阪神・
新庄剛志が甲子園の
巨人戦で決めた敬遠球サヨナラ打だ。
この年、阪神には
ヤクルト監督をやめたばかりの
野村克也が衝撃の監督就任。特に、“自由人”新庄との相性が心配されたが、野村監督は新庄にキャンプ、オープン戦で“二刀流”を指示し、大きな話題となり、本当のところは分からないが、表面的には良好な関係に見えた。
阪神は最終的には最下位に終わるのだが、5月に入って急上昇し、6月9日には首位に立っている。この試合も首位として4位・巨人を迎えた一戦だ。新庄は11日から座った四番にこの日も入り、まずは3対4の8回裏に同点本塁打。試合は延長戦となり12回裏一死一、三塁だった。巨人ベンチは新庄の打席で敬遠の指示をバッテリーに送り、満塁策を選んだが、実は新庄、9日の試合で敬遠された後、自身も現役時代、敬遠球を打った経験がある
柏原純一コーチに「敬遠球を打っていいですか」と確認。実際、高めのボール球を打つ練習もしていたという。
そんなことはまったく知らぬマウンドの巨人・
槙原寛己が投じた、1ボールからの2球目だった。新庄がバットを振ると打球は三遊間を抜け、サヨナラヒットに。技術面というより、ふつうであれば、失敗したらのリスクで二の足を踏むものだ。宇宙人・新庄だからこその快挙でもあった。
写真=BBM