
8回裏の守備で吉村は栄村と激突。激痛から気を失いかけていたという。この年は65試合で打率.302、13本塁打で終わった
プロ野球の歴史の中で、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は7月6日だ。
ある意味、
巨人の歴史を変えた事件が起こったのは、1988年7月6日、札幌円山球場だった。
プロ2年目の83年に、背番号55でブレークした巨人・
吉村禎章。50番の
駒田徳広、54番の
槙原寛己とともに「50番トリオ」と呼ばれる人気者となった。同年、翌84年は規定打席未到達だったが、打率.326、.342をマークした吉村は、86年からスタメンに完全定着。87年には打率.322、30本塁打、86打点。近未来の四番候補と期待されていた。
迎えた88年も打撃好調を維持。6日の
中日戦(札幌円山)でも第1打席でタイムリー、次の打席では3試合連続弾で、通算100号本塁打にも到達した。しかし8回表、左翼の守備中にフライを追って捕球した際にセンターの
栄村忠広と激しく交錯。左ヒザ外側じん帯断裂の重傷。そのまま長期離脱となった。
吉村が抜けた巨人は優勝を逃し、
王貞治監督は辞任。吉村は89年9月に奇跡の復活を遂げ、野球ファンを感動させたが、その後は一度も規定打席に到達することはなかった。結局、
原辰徳が四番を長く守り、その後は
落合博満、
清原和博ら外様が座ることが多く、生え抜きによる“真の四番”は、55の後継者・
松井秀喜の2000年となる。
もし吉村のケガがなかったら巨人の歴史は、どうなっていたのだろう……。
写真=BBM