“三振かホームラン”の豪快な打撃

近鉄時代。豪快な打撃は見る者を魅了した
7月26日、
巨人から
楽天への金銭トレードが発表された
ルイス・クルーズ(33歳)が、同日夜の
ソフトバンク戦(Koboパーク宮城)に、いきなり「六番・遊撃」でスタメン出場。攻守の活躍で首位決戦の勝利に貢献し、お立ち台にも上がった。
過去、シーズン中に日本球界内のトレードで移籍し、いきなり活躍した外国人選手となると
中日から近鉄へ移籍した
ブライアントがいる。移籍2年目にはV争い佳境での伝説の4打数連弾を含む49本塁打、121打点と打ちまくって1989年の近鉄リーグ優勝に貢献し、MVPに輝いた。“三振かホームラン”を地でいく豪快なバッティングで、日本球界での8年でホームラン王3回、三振王が5回となっている。
ブライアントは81年6月のドラフトで指名され、ドジャースと契約。しかしマイナーではよく打つのだが、メジャーでは確実性のなさが低評価となり、3年間、79試合の出場にとどまった。87年オフ、日本の中日ドラゴンズからオファーがあった際には、当時のラソーダ監督に直接、「来年は出番があるか」と尋ねたが、「少ないだろう」の返事。チャンスを求め、日本行きを決意した。
思わぬところから舞い込んだ幸運

中日時代。当時のアメリカの人気コメディアン、エディー・マーフィーに似ているとよく言われたが、素顔は繊細で、やや神経質なところもあった
88年来日。ただし、当時外国人選手の一軍登録は2人だけ。中日はゲーリー、
郭源治が好調で食い込む余地がなく、開幕から二軍生活が続いた。ブライアントは当時について「苦労した記憶しかない。朝が早いし、練習がハード。日本語が理解できないのに通訳もいない。まるで軍隊生活をしているみたいだった」と振り返る。
しかし、思わぬところから幸運が舞い込む。近鉄のデービスが大麻不法所持で逮捕され、解雇。急きょ申し出があり、6月27日、近鉄への金銭トレードが決まった。
そこから打ちまくる。最初の5試合で勝利打点4と鮮烈デビュー。閉幕までに74試合の出場ながら打率.307、34本塁打、73打点。チームは2位で終わったが、あの「10.19」に向けた快進撃の立役者となる。
その陰には、近鉄の
中西太コーチとのマンツーマンの練習があった。「肩が開かないこと、アッパースイングになり過ぎないことだけを言って、ひたすらトスバッティングをやった。前から投げたり、横から投げたり、いろいろやりながらね。ボールがワシの体に当たったり、バットが手に当たることもしょっちゅうや。長いときは40分くらいやったね。アイツには日本で絶対に成功しなきゃというハングリーさがあった」と中西氏は振り返る。
助っ人に限らない。幸運と努力。その2つが重ね合わさったとき、シンデレラ・ストーリーは生まれるのだ。
写真=BBM