王と入れ替わるように球界の表舞台に躍り出た背番号31

背番号31といえば掛布のイメージがいまだに球界に浸透している
かつて所属していた草野球チームに、背番号「31」を着けている男がいた(草野球の背番号には、その人その人の嗜好が如実に表れるため、非常に面白い)。
「31」は4代目ミスタータイガースと称された
掛布雅之の代名詞だ。
田淵幸一が1979年に
西武に放出された後、80年代タイガースの主砲を担った。
80年代といえば、バブルの真っただ中。テレビ視聴率という点でプロ野球が最も人気を誇ったともされる時代だ。
少なくとも人気面ではまだまだ
巨人の“一強体制”が色濃かったものの、掛布は紛れもなく他球団のスターだった。毎日のようにブラウン管で流れていた地上波中継の露出効果もさることながら、掛布の知名度を全国区に押し上げた要因の一つは、「金鳥」の蚊取りマットのCM出演だろう。「カカカカ、掛布さん」というフレーズと、屈託のない笑顔ですっかりお茶の間の人気者になった。
右投げ左打ちだった。現在では右投げ左打ちは当たり前の時代になったが、当時はまだ珍しかったように思う。自チームの大先輩である
藤田平。2学年後輩で同じ千葉県出身の
篠塚利夫(現・和典)。のちに“ゴジラ”
松井秀喜という右投げ左打ちの大砲が出現、球界のトレンドも変わってくるが、当時はまだ右投げ左打ちにはヒットメーカーのイメージが強かった。
そういう時代において掛布は79年、48本塁打を放ちホームラン王に輝いた。
王貞治が80年限りに現役を引退。世界のホームラン王と入れ替わるように球界の表舞台に躍り出た背番号31は強烈なインパクトを残した。
記憶に残る掛布一連の所作

掛布の打席でのルーティンは当時の野球少年のだれもがマネをした
8月2日発売の『ベースボールマガジン』9月号は「猛虎の記憶」としてタイガースを大特集している。同誌の中で、現在
阪神の二軍監督を務める掛布二軍監督に話を聞いた。右投げ左打ちでありながら本塁打を量産できた理由として、本人は「僕は右利きでしたが、押し込むほうの左手の感性が(ほかの右投げ左打ちとは)違った」と語っていた。
インタビューのメーンテーマは、掛布以降の阪神に「なぜミスタータイガースは生まれないのか」だったが、現役時代を振り返ってもらう中で、ぜひとも聞いてみたいことがあった。というのも、投手が投球モーションに入る前の間合いの中で、掛布が見せた一連の所作というのが記憶の中に残っているからだ。
まず左手の指先でユニフォームの太もものあたりをたくし上げ、バットを持った右手をグルグルと回す。両手でバットを握ると目の前でバットを寝かせ気味にして、そこから初めて構えに入ってバットのヘッドに向けてチラリと視線を送る。記憶をたぐると、いくつもの“掛布オリジナル”が目に浮かんでくる。
一連の動作は観客を喜ばせるためのパフォーマンスでもなんでもなかった。一つひとつに意味があった。手首にはめた当時としては珍しかったリストバンドをつけた経緯や、手袋をしないでバットを握った理由まで語ってくれた。そこで思ったのは往年の選手には、少年ファンが思わずマネをしたくなるようなオリジナルの構えやフォーム、フォロースルー、誤解を恐れずにいうと「見せ方」にこだわる選手が多かったということだ。
シルエットや影絵にした場合、ひと目でわかる選手にどんどん出てきてほしい。プロ野球を見る楽しさが一段と増すはずだ。
文=佐藤正行(ベースボールマガジン編集長) 写真=BBM