
両手を遠慮がちに広げ、ダイヤモンドを回る広野。確かにフワフワとした感じの走り方だ
プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は8月2日だ。
1966年、首位・
巨人と4.5差で追う2位・
中日の3連戦初戦が8月2日、中日球場(現ナゴヤ球場)で行われた。
ドラマが生まれたのは、第1戦だ。9回裏、3対5とリードされた中日の攻撃は簡単に二死となる。一塁に走者はいたが、すでに気の早い観客は出口へと急ぎ始めていた。
しかし、ここから中日打線が粘る。一番・
中暁生、二番・
高木守道も連続ヒットで二死満塁に。ここで巨人・
川上哲治監督は先発の
城之内邦雄をあきらめ、同年旋風を巻き起こしていた新人・
堀内恒夫を送る。打席に入った中日の三番も、慶大からドラフト3位で入団した、こちらも新人の
広野功だ。このとき「今度こそ打ってやる!」と気合が入った。
「あのときは試合も見ずに、ブルペンにいた堀内を見ていたんです。『掘内、出てこい』って祈りながら。実は春先に一度ルーキー対談をしたんですが、そのときの彼の態度がすごく大きくて、印象が悪かったんですよ。僕のほうが4学年上ですからね(堀内は高卒入団)。それなのに7月2日、後楽園での初対決は4打数無安打。情けなくてねえ。そこから弾きがいい堀内専用のバットを準備し、寮でもいつも堀内の球を想定して素振りをしていた。その執念を見て、神様が、あの舞台を用意してくれたのかもしれませんね」(広野)
すぐ広野は堀内用のバットをロッカールームから持ってきた。狙いはストレート。ブルペンを見ているとカーブは抜けていた。1球目、狙い球のストレートをファウル。ただ、このとき「打てる」と確信したという。2球目は投げた瞬間ボールと分かるカーブで、その次の3球目が運命の1球となる。
少し甘く入ったストレートにバットを一閃。打球は右中間スタンドに飛び込む逆転サヨナラ満塁ホームランだ。
「雲の上を歩いているようなフワフワした気分でした。あの夜はうれしくて、うれして眠れませんでしたね」
なお広野はその後、68年西鉄、71年には巨人に移籍し、74年中日に戻って引退。巨人時代の71年にも2度目の逆転サヨナラ満塁弾を放っている。
写真=BBM