2017年6月19日。大家友和は現役引退を発表した。日米を股にかけて活躍した右腕だが、もしナックルボールと出合っていなければ41歳まで野球を続けることはなかっただろう。どこまでも野球と愚直に向き合った大家とキセキの魔球を巡る物語──。 「僕は1年たりとも同じピッチングはしていない」

2010年、横浜に復帰。5月2日のヤクルト戦で復帰後初マウンドに上がった
ナックルボールを投げる以前から、大家友和の持ち球は“魔球”と呼ばれていた。
2010年4月、大家は古巣・横浜(現
DeNA)ベイスターズで12年ぶりに日本球界復帰を果たしている。二軍の3試合で調整したのち、いよいよ5月2日神宮球場のヤクルト戦で先発。6回1/3を投げて6安打1失点と好投し、試合は4対1で横浜が勝って、大家は高卒ルーキー以来、実に16年ぶりとなる日本球界2勝目を挙げた。
復帰したとき、“メジャー51勝逆輸入右腕”と新聞に書かれたが、実際、契約した横浜は彼がほんとうはどんな球を投げるピッチャーなのかを把握しきれていなかったのかもしれない。
彼が球団を離れたのは、横浜が38年ぶりの優勝に沸いた1998年の秋。主に二軍で投げていた選手に優勝の実感はなく、ちょうどそのころの彼は、大阪の通天閣のてっぺんにあるビリケン像に「どうかアメリカに行かせてください!」と願掛けをしていた。
アメリカに渡ったときは22歳で、戻って来たのが34歳。その間、日々身体を鍛錬し、日本に復帰したときには見違えるほど立派なアスリートになっていた。
彼をスカウトした球団関係者も驚いた。
「以前とは身体つきがもうぜんぜん違います。風格もありますし、自信もあるのでしょう。向こうで身に付けてきたものもあるのでしょうね」
肉体はもちろん変化しただろう。しかし、12年でいちばん進化したのは彼のピッチングだった。
「トレーニングとピッチングは別物ですよ。トレーニングだけしていてもアウトは取れませんから」と、彼は冗談めかしてよく言っていたが、日本の球界が大家はいったいどんな球を引っさげて戻って来るのだろうかと注目する一方で、大家自身もまた、日本の球界を唸らせるピッチングで自己表現する必要があった。
アメリカで投げていたころ、彼は言っていた。
「僕は1年たりとも同じピッチングをしていないんです」
「彼はさらに掘り下げる」
22歳で渡米してすぐの春季キャンプで、彼はそれまで日本では見たこともなかった軌道の球を目の当たりにしている。テレビで見るグレッグ・マダックスも同じようなボールを操っていた。マダックスとは、大リーグで通算355勝を挙げた大投手で、その精密なコントロールから“教授”と呼ばれた人である。豪速球ではなく、制球で勝負するタイプで、のちの大家友和のピッチングのイメージと重なる。
渡米早々、彼はチームメートに教わりながら新種の球を投げる練習を始めた。
「たとえばツーシームだったら、グレッグ・マダックスみたいにすごいのを投げている自分を勝手に想像していた。あんなのは投げられないけど、だからこそグニャって大きく曲がるイメージで投げたりしてた(笑)」
「もし自分が打者をねじ伏せることができるような球を投げられたら、いわゆる『クセ球』を投げる必要はなかっただろう。でも、僕は天才ではなかったから、食べていくためにどうすればいいかを考えた」
横浜復帰の年、彼は雑誌の連載にそう綴っている。
ツーシームとは、いわゆる真っすぐの4シームと同じ腕の振りから投げ込まれ、バッターの手元で右に小さく曲がって落ちる球だ。
大リーグで活躍していたころ、大家は“和製マダックス”と呼ばれた。マダックスのようにコントロールがよくて、低めに丁寧に投げて打ち取っていくピッチング・スタイルだったからだ。あるいは、派手な空振り三振を奪うようなタイプではないけれど、淡々とテンポよく打ち取ってアウトを重ねていくスタイルから、イニングを食べてしまうという表現で“イニング・イーター”とも言われた。
ツーシームのほかにも、高速変化球としては左打者の胸元を目掛けた痛快のカットボールや、そのほかチェンジアップ、カーブ、スプリット、スライダー、そして軸となる真っすぐと、彼にはいくつも引き出しがあった。
そうした新種のボールへかける姿勢は、何が何でもアメリカでつぶされない、生き残るんだという差し迫った思いの表れでもある。
「ルーキーとしての出だしが、日本とアメリカとで少し似ていたんです」と、彼は話したことがある。日本球界では高卒ルーキーとして4月初勝利という華々しい幕開け以降、5年間に及ぶ暗黒の時代から抜け出せずに苦しんだ。一方アメリカでは、マイナーリーグ11勝無敗で、渡米からわずか4カ月という予想以上のスピードでメジャーのマウンドに駆け上がった。
しかし、彼は努めて冷静になろうとしていたのであろう。デビューすることが目的ではなく、メジャーに定着して活躍することが目標だった。そしてアメリカで生き残るため、武器を一つひとつ、磨いていったのだ。
神宮での日本球界復帰戦を前に、大家を知る元
ソフトバンクの
竹岡和宏は、彼とのキャッチボールの思い出をこう語っている。
「最初の出会いは2001年のオフでした。回転がきれいじゃないけど、投げた瞬間に指先を抜けて、軽く投げているんだけれど、一回消えるようにして、そして手元でバ~ンと来るんですよ。途中からぐわ~っと来る。魔球、そう、魔球でした。例えばツーシームはね、普通なら真っすぐに来て右に逸れるのが、ヤツのは手元でグニャグニャ、グニャってなるんですよ。あいつのいちばん尊敬するところは探究心ですわ。僕も掘り下げていると思っていたけど、彼はさらに掘り下げる」
「これまでの5847日のことは、きっと僕にしか分からない」

日本復帰登板でバッテリーを組んだ武山(右)は大家に気持ちよく投げてもらうことだけを考えたという
さて、5月2日の神宮での復帰戦。試合前の練習会場には記者や関係者が30人以上、テレビカメラは6台、大家友和の一挙手一投足に張り付いた。極度の緊張状態だった大家をなんとか和らげようと、後輩が声をかける。
「大丈夫ですよ、散々メジャー・リーガーと一緒にやってきたんじゃないですか」
「そんなん関係あるか」
この状況下で自分がどう見られているかを大家自身もつかみかねていた。
「こいつ何者だ、という思いはあるでしょうね。僕もね、自分が何者なのか、分からないんですよ」
この日、ヤクルト打線に投げ込まれたのは全90球。すべてに意味があり、意図があった。
大家と14年ぶりの対決となったヤクルトの
宮本慎也は1回安打のあと、3打席を2飛球1ゴロに打ち取られた。
「まともなボールが一つもなかった。回転がグチャグチャ」
大家とバッテリーを組んだ捕手の
武山真吾(現
中日)は、とにかく気持ちよく投げてもらうことだけを心がけたという。
「ここからストライクに入るのか、というくらいボールが動いていました。慣れないと、捕るのも大変です」
16年ぶりにベイスターズのユニフォームを着て勝利投手インタビューに立った大家にスタンドから声が飛んだ。
「おかえり~」
翌日の新聞の見出しにあった“5847日ぶりの美酒”という文字。
大家は言った。
「これまでの5847日のことは、きっと僕にしか分からない」
<次回8月9日公開予定>
文=山森恵子 写真=BBM