1977年、今から40年前、大げさではなく、日本中がプロ野球に熱狂した時期がある。王貞治のハンク・アーロンが持つ当時のメジャー最多記録通算755号本塁打への挑戦だ。アーロンはブレーブス、ブリュワーズで76年まで現役を続けたホームランバッターだが、その引退翌年に王が世界記録を狙うのも、面白いめぐり合わせではある。週刊ベースボールONLINEでは、9月3日、756号の世界新記録達成までのカウントダウンを振り返っていく。 取材攻勢もさらにパワーアップ

3回表、松岡から38号、通算754本を放つ
8月27日、
巨人は3対0で勝利し、マジックを23としたが、王は4打数1安打、2三振に終わり、753本で足踏みしたままだった。
2対0で迎えた8回一死三塁の場面は、「歩かせるのでは」とも思われたが、リリーフで登場した王キラーとも呼ばれた左腕・
安田猛が果敢に攻め、最後はカーブで三振に斬って取った。それでも王は「チームが勝ったんだからよかったよ」と、試合後は上機嫌だった。
翌28日、球場には早朝からファンの行列ができ、王の自宅前には報道関係者の車の列。その日、「プロ野球は王のためだけに行われている」と報じた新聞もあった。
A社の王番記者は言う。
「あまり早く行ったら悪いと思ったから正午ごろ行ったら、もうスポーツ紙が5社来ていた。2人で来ていた社もあったから10人以上かな。午後からは週刊誌も来たね」
B社の記者は、上司から「命がけで恭子夫人の手記を取れ」と言われたようだ。C社の記者は、その様子を次のように話す。
「だいぶ前から頼んでいたみたいだけど、必死で頼んでもダメなんだ。隣で王が“もうあきらめなよ”って言ったら、B社の記者は“俺、クビになっちゃう。王さん、あとの生活の面倒をみてくれますか”って泣きついてたよ(笑)」
ナイターで行われた神宮での同カード。1打席目四球の後の第2打席、3回表二死からだった。フルカウントから
ヤクルト先発・
松岡弘が投じた高めのチェンジアップをとらえ、高々と右翼席中段に38号。記録を754号とした。その瞬間、球場全体が地鳴りのような大歓声に包まれ、しばらくの間、鳴りやまなかった。
打たれた松岡は「グラウンドは異様な熱気で、まるで地面が浮き上がるような感じだった」と語っている。
その後、2打席連続で歩かされ、最後9回の打席は、ふたたび王キラー・安田が登板。王は「真っ向勝負」(安田)のスローボールを引っかけ、一塁ゴロに倒れた。
試合後、756号の世界記録について「世界記録を作るとは思っていない。日本で756本塁打を放った人がいるというだけ。時代も状況も違うからね」と話している。
<次回に続く>
写真=BBM