2017年6月19日。
大家友和は現役引退を発表した。日米を股にかけて活躍した右腕だが、もしナックルボールと出合っていなければ41歳まで野球を続けることはなかっただろう。どこまでも野球と愚直に向き合った大家とキセキの魔球を巡る物語――。
“ドクター・ノー・スピン”の下での修行

テストを経て2013年12月、大家はブルージェイズとマイナー契約を結んだ
大家友和がナックルボールを投げ始めて1年が過ぎた。「今日から旅にでます」とブログに書き残し、彼は海を渡った。
「この旅で何か変わるか、変わらないか。どちらであっても、この旅を後悔することはないけれど……」
向かった先は、アメリカ南部アリゾナ州フェ
ニックス。そこに“ドクター・ノー・スピン”と呼ばれる人物がいた。ノー・スピン=無回転、つまりナックルボールの師匠である。その人の下で修行に励むのだ。
たとえば21世紀最強のナックルボーラーと言われるR.A.ディッキーには、1970~80年代に200勝~300勝したフィル・ニークロやチャーリー・ハフといった先人たちが直接アドバイスをくれた。そのニークロやハフの指南役だったのは、50年代のレジェンド、ホイット・ウィルヘルムだ。アメリカにおけるナックルボーラーの系譜は100年以上脈々と受け継がれ、彼らは太い絆で結ばれている。
日本でたった一人でナックルボールと向き合う大家にはそうした人がいなかった。独立BCリーグ富山サンダーバーズで先発としてチャンスをもらいながら、一人もがき、苦しむ日々である。果たして進んでいる方向性が正しいのかどうかが彼には分からない。ディッキーの投球画像を何百回見たところで、ディッキーが手を差し伸べてくれるわけでもない。この先ナックルをさらに深く掘り下げるにしても、それまで独学で推し進めてきた球がどれほどのものかを一度確かめる必要があった。誰かに判断してほしかったのだ。
「もう決着をつけたかったんです。今までいろんな球を投げてきました。真っすぐ、スライダー、カーブ、チェンジアップ、カットボール。さらにナックルボールにチャレンジして、それでたとえやめたとしても、もう誰も文句は言わないだろうって」
つまり、もうひとりの自分がこの自分に対して文句を言わないだろう、そう彼は思った。
「ずっと、自分の“死に場所”をどこにするのかって、考えていました」
アリゾナの師匠は言った。「おまえの握り方を見せてくれ」と。「私の握り方とは違うなあ」と師匠は言い、それでも実際の投球を見せると、「思ったよりも悪くないじゃないか」と褒めてくれた。しかし、高いレベルで投げることを目指すなら、高精度の無回転が8割の頻度で行くようにしなければダメだと指摘された。
――1日千回ボールに触れなさい。
それは師匠からの教えだった。早朝からフェニックス郊外の大学施設のグラウンドへ出向き、1日中、投げまくった。すると、近々大リーグの球団関係者に見てもらおうという話に進展する。プロ野球選手生活20年、37歳で初めて経験するトライアウトだった。
トロント・ブルージェイズとマイナー契約
ところが、肝心のトライアウト直前、彼は極端に調子を落としてしまう。いいときの感覚を完全に失っていた。
「すごく落ち込みました。ダメだ、話にならんわ、正直、話になってなかったですけど。だって、どうにでもなれって、これで無回転になってくれって、投げている状態ですから。たまに無回転になって、すごいボールが行くんですけど、ならなきゃ全然ダメで、スカウトを呼んで見てもらおうっていう直前、フィーリングがめちゃくちゃ悪かった。もう終わったと思いました。だってクルクル、クルクル回って受け手に行くだけですから。直したくても直し方が分からない。そもそもいい感覚をつかんでいないわけですから、(ナックルの)握り方しているだけで。ただ、あのとき良かったのは、腕が振れていたことですね」
修行を終えて帰国した彼は、京都の自宅ガレージにネットを張った。イスに腰掛け、水色のバケツいっぱいのボールを1つずつつかみ、ネットに向かって投げる。
いつもボールの握りを探っていろよ、その教えを彼は守った。ボールをつかみ、ネットに投げる。何度も繰り返した。指先から血が流れた。それでもまたボールをつかみ、ネットに投げる。練習グラウンドにはいつもヤスリを携帯していた。ナックルボーラーにとって指先は命。深爪するくらい爪を研ぐ。指先の肉でボールをつかむ握り方なので、爪がボールに引っかからないようにするためだ。
一人で続ける修行の成果が徐々に出始めていた。思い描くイメージどおりの球が行く確率が飛躍的に上がった。捕球相手の後輩が、「画像で見るナックルボールに近づいてきましたよ」と言ってくれた。
ひと月ほど過ぎた師走のある日、京都の自宅に国際郵便が届いた。書類のレターヘッドにはメジャー・リーグ球団のロゴ。契約書だった。2013年12月16日、トロント・ブルージェイズとマイナー契約を結んだ。メジャー・キャンプへも招待されている。ブルージェイズにはR.A.ディッキーがいる。トライアウトのあと複数球団が大家のナックルボーラーに興味を示す中で、あえてトロントを選んだのは、ディッキーの存在が大きかった。もしも、日本初のピュア・ナックルボーラー大家友和と、サイ・ヤング賞投手ディッキーがつながることができたなら、それが日本におけるナックルボーラーの系譜の始まりになるかもしれないのだ。
契約直後、ブルージェイズのGMアレックス・アンソポロスはこう表明している。
「彼とのマイナー契約は、私たちには何のリスクもないのです。彼のことなら以前からよく分かっています。素晴らしいアスリートであり、制球力に優れ、強い意志を持っている。我々としては彼をメジャー復帰させることができるか、まあ見てみたいところです。2Aぐらいから徐々に慣らしていったらと思っています」
メジャーのキャンプでディッキーのナックルを間近で見られるのは魅力的であったが、GMが我々にリスクはないと言うのなら、リスクを負ったのは大家のほうだったかもしれない。投げ始めて1年しか研鑽を積んでいない状態のナックルが、メジャーレベルで使いものになるかどうかの判断を下されるのは時期尚早だったからだ。果たしてブルージェイズは、どこまで我慢強く新米ナックルボーラーを見守ってくれるのか。たとえ未熟だったとしても、ディッキーという成功例が身近にあれば、球団は長い目で育てようとしてくれるかもしれない。その望みを捨てきれない一方で、球団の真意をつかみきれずにいた。
ディッキーと過ごした宝物のような時間

ナックルボーラーのR.A.ディッキーから何かを盗もうと大家は必死になった
2014年2月18日、フロリダ州タンパ近郊ダニーデン、フロリダ・オート・エクスチェンジ・スタジアム。トロント・ブルージェイズの春季キャンプの拠点である。大家にとっては2009年のクリーブランド・インディアンス以来5年ぶりのメジャー・リーグのキャンプだった。背番号は「55」。クラブハウスのロッカーは、同じくマイナー契約でメジャー・キャンプに招待された
川崎宗則と隣同士だ。大家は、かつて10年投げてきたメジャーの舞台に戻ってきたという感慨よりは、本当に夢が叶ってしまったことに戸惑っていた。
「こんなところに自分がいていいのかなあって、すごく違和感がありました。アメリカでまたやれるなんて、誰も思っていなかったから」
ブルージェイズの監督はジョン・ギブソン。以前、大家がトロントに所属していたときと同じ人だ。
「オオカがまだ頑張っているんで、うれしいよ」
2月19日、キャンプ2日目、午前8時。ネットに覆われた屋内練習場で大家はシャドーピッチングをしていた。そして、一人で投球練習を始める。バケツに入ったボールを次々とネットに投げ込み、バケツが空っぽになると、一つひとつボールを拾ってはバケツに集める。そして再び投げ込む。その繰り返しだ。
9時15分。スタジアムから練習会場となるマイナー施設まで36人の選手がバスで移動する。野手に先駆け、ピッチャー29人、キャッチャー7人が4日ほど早くキャンプインしていた。9時40分、フィールドでストレッチが始まった。10時5分、3つのフィールドに分かれて練習開始。大家は第2班。R.A.ディッキーと同じ組だった。10時17分、キャッチボールを始める。大家の相手は招待選手のピッチャーだ。一方のディッキーにだけは専属キャッチャーがついていた。大家はディッキーの行動をつぶさにチェックする。キャッチボールの量、ボールの握り、体の使い方、そのすべてを。
10時30分。グループ5人が一斉にブルペンへ移動し、5人同時に投球練習に入った。おもむろに、監督やコーチ陣がブルペンの近くへ集まってくる。左端でディッキーが投げる。3人挟んで右端で大家が投げる。同時に二人が、ナックルボールを投げ始めた。首脳陣がそれをじっと見つめる。
ディッキーのナックルは速かった。そして力強かった。リズミカルだ。自信に満ちあふれている。一方の大家は20球ほど投げたところで、コーチの一人が彼に話しかけた。ようやく少し表情を緩ます。笑顔がもれる。後半、ナックルがようやく言うことを聞き始めたようだ。ほかの球種も少し混ぜ始めた。捕球は25歳の若手キャッチャー。ナックルを受けるのはこの日が初めてらしい。先に上がったディッキーのキャッチャーも大家の投球を見守った。約10分間のショータイムが、終わった。
全体練習は昼前には切り上げられた。クラブハウスで昼食をかきこんだ大家は、「特訓してきます!」と言い残し、再び屋内練習場へと消えて行った。彼は悔しがっていた。午前中のブルペン投球の出来栄えにがっかりしていたのだ。自分の投げるボールが自分を裏切る、と、彼は言った。自分のボールに失望し、安堵し、ネガティブとポジティブのその繰り返しなのだと。
「僕には残された時間がありません。ディッキーは極めた39歳ですけれど、僕はまだナックルボーラーとして何にも結果を出してなくて、38歳です」
大家とディッキーをあえて同じグループにしたのは、ピッチング・コーチの
ピート・ウォーカーだった。
「トモは、できるだけR.A.のそばにいて、接するチャンスが欲しかっただろうし、それは彼のためにもなると思った。彼には、ナックルを上達させていくための方法について話をしたよ。今日のブルペンでは自分の思ったように投げられなかったようだけれど、いいところもあったと我々は見ている。彼は戦いを勝ち抜いてきた男だし、いい結果を出したいだろうし、今後、試合で投げるのを見ながら判断していくことになると思う。R.A.も言っているように、とりわけ非常に難しい球だ。たくさんの試練が待ち受けているだろう。すべてはトモ次第。どれだけ本気で、どこまで突き詰めるのか。もちろん、覚悟を持って取り組んでいることはよく分かっている……」
もしも球団側が、それまでの大家の大リーグでの実績を踏まえ、ナックルボーラーとしてのポテンシャルも高く見込んでいるとしたら、彼はキャンプで生き延びることができるだろう。
「ウソでもいい。だからお前を取ったんだって、そう言わせてやりたい!」
1週間後、いよいよメジャーのオープン戦が始まった。登板予定表にトモ・オオカの名前も記されていた。ダグアウトで出番を待った。
<次回11月8日公開予定>
文=山森恵子 写真=Getty Images