2017年6月19日。
大家友和は現役引退を発表した。日米を股にかけて活躍した右腕だが、もしナックルボールと出合っていなければ41歳まで野球を続けることはなかっただろう。どこまでも野球と愚直に向き合った大家とキセキの魔球を巡る物語――。
あからさまだったコーチ陣の無関心な態度

ブルージェイズで5年ぶりにナックルボーラーとしてメジャー復帰を目指した大家
2014年1月、トロントの新聞は“トモ・オオカの第2幕が始まる!”という見出しで、メジャー復帰を目指す大家友和の挑戦を取り上げた。
今の彼は7年前にブルージェイズで投げていたころの彼ではなく、ナックルボーラーとして生まれ変わったトモ・オオカであると前置きした上で、おそらく2Aで投げ始めるのがいいだろうと言ったGMの構想を分析した。きっとそれは将来的に、R.A.ディッキーのナックルを捕ることになる若手キャッチャーにとって、オオカの球を受けるメリットは大いにあるのだし、オオカ自身もマイナーで時間をかけて存分にナックルを育てることができるだろうと予測し、契約したからには、球団側は彼のナックルボールをある程度高く評価しているに違いない、と締めくくった。
それは非常にまともなとらえ方だった。メジャーで10年投げた選手を古巣に迎え入れるにあたり、最低限のリスペクトを踏まえれば、たとえまったく保証のないマイナー契約であったとしても、チーム側は長い目を持って育てるつもりだろうと考えるのはごく自然だからだ。
しかし、キャンプに入るまで、トロント・ブルージェイズは大家のナックルボールの詳細をまったく把握していなかった。知っていたのは、投げ始めてほぼ1年ということだけだ。フロリダのキャンプが始まってしばらくの間トモ・オオカを取り巻いていた期待感というものは、メジャー・リーガーとしての実績を踏まえ、この選手ならきっとナックルも相当なレベルに押し上げてくるだろうというポテンシャルが基盤になっていた。球団側の確固たる方針や心意気が裏付けにあったわけではなかったのだ。
日本で独学で投げていた元メジャー・リーガーのナックルボールがアメリカへ持ち込まれ、さらにディッキーと同じ空間で練習するチャンスも与えられた。それだけを考えれば、確かに大家にとって第2幕は開かれたのかもしれない。だが、それは思わぬ試練にさらされる苦悩の日々の始まりであり、その先にはナックルボーラーが直面する生々しい現実が待ち受けていた。
メジャー・キャンプ開始から10日目の2月26日、ブルージェイズのオープン戦が始まった。大家は出場予定メンバーに名を連ね、実際に球場のダグアウトでスタンバイする姿がテレビ中継で映し出されている。しかし、予告に反し、彼に出番は巡って来なかった。結局彼はメジャーのキャンプ公式戦では一度も投げることはなかったのである。
3月2日、チームがメジャー・キャンプからマイナーへと選手を降格させた初日、大家は移動となり、それ以降マイナー・リーグ・キャンプのオープン戦で3試合を投げている。最後の試合日は、ちょうど彼の38歳の誕生日だった。
しかし、このころにはすでに雲行きが怪しくなっている。事前の登板予告もろくに知らされないため、調整はしづらく、疲れは溜まり、調子も出ない。そして何より彼を追い詰めたのは、マイナー・リーグのコーチ陣の無関心な態度があからさまだったことだ。
ナックルボーラーを育てる気はなかった
たまたまその姿を、取材に訪れていた元メジャー・リーガーの
田口壮氏(現
オリックス二軍監督兼打撃コーチ)が目撃している。彼は「ナックルボーラーのいばら道」と題して、新聞にこう書いた。
「そんな大家投手には1つ、大きなハンディがありました。キャッチボールをしてくれる相手がいなかったのです。何しろ捕手も捕れないような球です。投手同士でキャッチボールをしていたら、投手コーチに『ケガのもとだから』と言われ、ナックルを投げることを禁止されたそうです。1人で壁に向かって投げている姿に、私は涙が出そうになりました」
長年メジャー・リーガーとして活躍した大家に、田口氏は「よく我慢できているね」と声をかけた。自身の経験から、メジャーとマイナーとでは選手を取り巻く環境や待遇に雲泥の差があることを実感していたからだ。すると大家はこう答えたそうである。
「この(マイナー・リーグの)厳しさに耐えられないようなら、ナックルボールなど投げてはいけないのです」
マイナー・キャンプが始まった3月上旬、実はブルージェイズは大家のほかにもう1人、ナックルボーラーと契約している。フランク・バイオーラという30歳の投手で、1980年代、ミネソタ・ツインズ時代にサイ・ヤング賞を受賞した同名のフランク・バイオーラの息子だった。息子はシングルA止まりの選手だったが、親の七光りなのか、オフシーズンにディッキーの地元でナックルを直伝されている。ディッキー以外に球団内にナックルを教えられる者はいない。オープン戦が始まると、メジャーとマイナーの選手が交わる機会はほとんどない。マイナー・キャンプに2人のナックルボーラーを抱える球団の意図は、その息子選手の存在によってますます読み取りにくくなった。
キャンプ中、大家はほぼ毎日のようにブルペンで投げ込みを続けた。しかし、捕球相手のキャッチャーの格は日に日に下がり、コーチ陣は相変わらず無関心を装った。そうした状況から選手は微妙に匂いを嗅ぎとる。誰を投げさせ、誰に注目するかは、現場の判断ではなく、組織の上層部の指示によるのだ。彼らの態度に然るべき根拠があるとするなら、それがなおさら大家を孤独へ追いやった。
「じゃあ、何で僕を取ったの?」
当然、そういう思考に陥っていく。そして彼は誰に教えられなくとも、このとき決定的なことをすでに感じ取っていたのだ。
「ナックルボーラーを育てるつもりなんて、さらさらなかったんだ」
大家のナックルを一番理解していたディッキー

チームメートのナックルボーラー、R.A.ディッキーは大家のことを理解していたが……
ある日、ブルペンで、1人、ナックルを投げ込む彼の姿をマウンドの背後でじっと見守る人がいた。チームOBのスペシャル・コンサルタント、ポール・クアントリルである。メジャーで15年活躍した投手だった。おそらくチームの編成に口を挟める立場ではないだろうが、それでも大家のナックルボールに熱いまなざしを注いでいた。
「オオカは確実に進歩している。たとえ上達の速度がゆっくりだったとしても、ナックルとはそういうものなのだ。それまでの10年間左打ちだった打者が、突然、右打ちに変えるようなもので、それまでとはまったく異なる方法で学び直しているのだ。さあ始めようと言って、一晩でできるようなことじゃない。私にはナックルボールは投げられないが、もしやろうとしたら相当難しいだろうと思う。だが、彼はやれるよ。きっと辿り着く。私はそう信じている。なぜなら彼は素晴らしいアスリートだからだ。辛抱強く、聞く耳を持っているし、目指そうとするものがはっきりとしている」
肝心なことは、球団がどこまで我慢するつもりがあったのかということだ。あのディッキーでさえナックルボールが使い物になるまで5年以上を費やしている。いざナックルボーラーとしてメジャー初登板した日に6本の本塁打を浴びて痛烈な洗礼を受けているのだ。だからこそ、ポール・クアントリルはほとんど願いを込めるようにこう言った。
「オオカには素晴らしい経歴がある。どうすればメジャーに戻れるのか、ビジネスはどう運ばれているのかを彼はよく分かっている。そういう男だからこそ、時間をかけ、上達を見守りたいと思うものだ。そういう選手だから信じてみようと思うじゃないか。もし、過去の実績が何もなければ、球団としてもそこまで我慢強くはいられないだろう」
しかし、クアントリルがそう言ってから2日後の3月23日、大家はブルージェイズをクビになった。
キャンプ終盤、エージェントは球団側に、もう一度だけ彼にチャンスをあげてほしいと頼んでいる。だが、それも叶わなかった。クアントリルが願っていたようには、球団側は忍耐強くはなかったのだ。
渡米してから39日。
大家のナックルボールは路頭に迷った。たった1つだけ希望が残っているとすれば、それは彼のナックルがキャンプ中に確実に上達していたことだ。突然、進む道を断たれた和製ナックルボールは果たしてどこへ向かうのか。大家の気持ちはもうキレていた。これだけの屈辱を味わったのだから無理もない。だがたぶん、このころの彼は気付いていたのかもしれない。ナックルボールは投げる人を選ぶというけれど、選ばれし者として、彼自身がナックルボールから逃れられなくなっていたことに。
解雇の数日後から、彼はフロリダのアパート近くの公園で再びナックルボールを投げ始めた。彼にはまだやり残したことがあったのだ。ブルージェイズのメジャー・キャンプでディッキーと過ごしたのは13日間。その日々の中でディッキーから授かった言葉は決して多くはなかったかもしれない。だが、そのどれもがナックルボールの核心をつくアドバイスばかりだった。投げ続けなければその真意が分からない。投げればその言葉が染みてくる。大家が冷やかしでナックルボールを投げているんじゃないことを一番理解していたのは、たぶんディッキーだった。
「彼のナックルは進化の途中。でも、かなりの素質はあると思う」
そこには、自分よりもずっと前にメジャー1000イニングを達成したトモ・オオカに対するリスペクトがちゃんとあったのだ。
<次回11月15日公開予定>
文=山森恵子 写真=Getty Images